既に死刑再審無罪という、この国の司法の深刻な欠陥が生み出したともいえる事態がありながら、いわゆる「平成の司法改革」で、これが真正面から取り上げられなかった理由について、業界ではずっとあることが言われてきた。
「収拾がつかなくなる」
つまり、これをテーマにすると、「改革」を一つの方向にまとめてスタートを切ることができなくなる、という認識があったということである。いうまでもなく、検察や裁判所が、その原因について、自らの責任に引き付けた内容を正面から認め、「改革」を議論する方向で一致するというのは、相当ハードルが高いという見方がそこにあった。そもそも彼らは、「改革」の必要性に繋がる形で、自らの責任を認めることはないだろう、と。
もちろん、あくまで一つの見方であって、確固たる裏付けがあることではない。しかし、12月26日に発表された、袴田巌さんが再審無罪になった冤罪事件についての最高検の検証結果と、そこで示された姿勢を見るにつけ、やはりあの見方の正しさを思わざるを得ない。
その最大の焦点は、業界にも衝撃が走った、9月の再審無罪判決が認定した捜査機関による証拠の捏造についてである。捜査機関が血痕を付けるなどして,味噌タンク内に隠したと、捏造を指摘された「5点の衣類」ついて、報告書は当初既にパジャマを犯行着衣とする立証方針だったとして、「捏造は現実的にあり得ない」とした。
また、同日行われた次席検事の会見では、捏造を否定してきた検察の立証活動を「問題なし」とし、検証は公判資料などの記録を基に実施し、当時の検察官などへの聞き取りは、「必要とは考えなかった」「可能な人物かいなかった」と指摘。第三者を入れず、検察内部で検証した理由については、関係者のプライバシーや司法の独立の問題を挙げたとも報じられている。
有り体にいえば、ハナから向き合うという選択肢がないといってもいいような姿勢である。10月の検事総長談話でも、判決が捏造と断じたことに「強い不満」を表明しており、この点は何としても譲れない、既定方針だったことすらうかがわせる。
同日、発表された静岡県警の検証では、この「5点の衣類」の捏造について、元捜査員らの聞き取りを実施したうえで、捏造をうかがわせる具体的な事実や証言は得られなかったとする一方で、捏造がなかったことを明らかにする具体的な事実や証言はえられなかった、としている。どちらも捏造を認めているものとはいえないが、聞き取りへの姿勢と可能性にふくみを持たせたような結論では最高検とはその印象が大分違う。
また、最高検が第三者の検証に難色を示し、その理由にプライバシーや司法の独立を挙げたところも、逆に苦しい言い逃れにみえる。司法判断の中で、捏造を指摘されているという事態の深刻さから考えると、いかにも自覚不足の印象を受ける。そもそも「あり得ない」というが、国民からすれば、それこそ「あり得ない」ことが現実に起きているという目線であることをどこまで認識しているのだろうか。
もっとも、現実的に考えれば、独自検証の結果が、今回のような後ろ向きにとれる姿勢と、弁明だけに終始しているようなものであればあるほど、第三者委員会による検証の必要性がクローズアップされてきている、ともいえ、制度化が今後、議論される方向も生まれるかもしれない。
この事件に限らず、冤罪事件をめぐっては、常に捜査機関側の「メンツ」ということが言われてきた。これが意味しているのは、もちろん挙げた手は下ろせないというような意地。誤りを認めないのは、誤るような組織には断じてできない、という意識の反映をうかがわせるものである。
そして、これが常に奇妙な気持ちになるのは、彼らの本来、「メンツ」を賭けてこだわるべきことは、この国で正義が貫かれることの方ではないのか、と、つい思ってしまうからである。