司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 このところ、いわゆる秘密保護法案をめぐる議論で取りざたされている、国民の「知る権利」。だが、同法が現実的にこの権利をどう担保するのかという文脈のなかで、今、当たり前のように登場している「配慮」という言葉には、妙な違和感を覚える。もちろん、国民の「知る権利」に資する報道・取材の自由を守れ、という趣旨は分かる。ただ、問題の重大性に対して、この言葉のあまりの重みのなさ、ここに何が担保され、何を信じていいのか皆目わからないような、あいまいさを感じてしまうからだ。

 報道の自由に「十分に配慮する」、国民の基本的人権を「不当に」侵害するようなことはあってはならない――。そもそも原案にあったこうした表現は、誰が見ても、言い逃れを許す、典型的なザル法の条文だ。既に報道でも、自民党内では、この条文は政府に対し、何らかの強制力を持たせるものではなく、努力を求める「訓示規定」であるという認識、さらに「知る権利」という文言自体も法案に入れないという意向も伝えられている。

 皮肉な言い方をすれば、「配慮」は私たち国民に対してではなく、法案成立に協力させたい公明党に対するものと、いってしまうこともできるだろう。政権の、国民の「知る権利」担保に対する本気を、この「配慮」から、私たちはどう読みとればいい、というのだろうか。

 ただ、問題は、私たち国民の側の目線にもあるように思う。大マスコミも同法案が何をもたらすのかについて、報道しているが、この法案と「知る権利」のこれからについて、どれくらいの不信感と不安感を持って、見ているのかということだ。捜査の可視化も典型的にそうだが、国民に対する「透明化」に国家が積極的に乗り出している(乗り出さざるを得なくなっている)諸外国の例では、いずれも国民の側の、それ相当の大きな不信感が存在しているという現実がある。いわば、国家権力をやはり追い詰めている世論の目が存在しているということになる。

 逆に言えば、日本で、「透明化」への動きが鈍いのであれば、その大きな要因に、それを許している世論の不信感の弱さがある、ということもできなくない。それはさらに、あるいは当局をして、「それは国民の一定の信頼を得ている証拠」として片付けられてしまうかもしれない。

 ただ、基本的に忘れてはいけないのは、既に発表されているパブリックコメントの結果でも、回答の77%がこの法案に反対し賛成は13%たらずで、その反対の主な理由は、まさに「知る権利」侵害や「特定秘密」の範囲の不明確さにあるということが伝えられている。これだけの反対の声があるなかで、法案を通そうとすること自体、そもそも「配慮」の心底がうかがわれるというものだが、逆にいえば、もっと厳しい目がなければ、彼は「いける」というヨミのうえに、あぐらをかくことははっきりしているというべきだ。

 「報道の自由というが、マスコミは報道をしない自由も行使しているではないか」

 こんな言葉も、ネット上では見られる。確かに大マスコミが、国民の「知る権利」に応えるべく、真実をフェアに伝えてきたのか、という批判は成り立つ。あるいは前記当局に言い分を与える「国民の信頼」論が、等身大の国民の現実、つまりはこの法案を許す現実とされてしまうかもしれないが、その前提には、当然、国民に情報がフェアに伝えられる必要があることはいうまでもない。それだけに、国民は大マスコミに対しても、同様もっと不信感を持つ必要があるかもしれない。

 まずは、「知る権利」の扱いを見つめる、私たち国民の自覚が求められている。



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