小川敏夫前法相の退任会見で飛び出した「指揮権発動」発言の波紋が広がっている。小沢一郎・民主党元代表の政治資金をめぐる事件で、東京地検特捜部の検事が虚偽の捜査報告書を作成して検察審査会に提出した問題で、虚偽有印公文書作成・同行使容疑で告発されている同検事を検察は起訴しない方針だが、小川法相は、6月4日の会見で「検察が身内に甘い、適当な形で幕引きをしてしまえば、国民の信頼回復は得られないのではないか」との懸念から、指揮権発動を決意していた、と表明。しかし、野田佳彦首相に伝えたが、了承が得られなかったことも明らかにした。
この発言は、二つの点で、本件での「指揮権発動」の妥当性以前に、大衆に疑問を抱かせるものをはらんでいた、といえる。一つは、それが退任会見という場で、唐突に飛び出したこと。もう一つは、法務大臣の専権事項を首相に持ちかけて、拒否されたために中止したと伝わったこと、である。
退任会見での公表は、もはや過去の成せなかった発動をあえて明らかにする意味を、小川前法相のこの問題に対する個人的な姿勢のアピールととられかねない面があった。
しかし、5月11日に首相に意向を伝えたのちの同月末、法務官僚から同検事を「停職」とするなどの処分案を伝えられたのに対し、小川法相(当時)は「検事の記憶違いだったという説明で、国民の理解を得られると思うか」と了承しなかったこと、影響の大きさから首相の耳に入れたもので、了承されなかったが、潰されたわけではなく、6月5日にも再度首相との会談予定を入れており、首相を説得できなくても、法務大臣の判断として6日に発動するつもりだったことも明らかされている(週刊朝日6月22日付け、ジャーナリスト・江川紹子氏インタビュー記事)。
一方、野田首相は12日の衆院予算委員会で「小川(前)大臣が特に国民の不信が残念ながら強まっている検察行政の在り方について、大変問題意識を持っているという話はあったが、指揮権という言葉は出てきていない」「私の記憶では、指揮権のやり取りを打ち消したり、止めたという認識もない」などと、指揮権をめぐるやりとりを否定した、ということも伝えられている。
それだけに、小川前法相側の「意向」とされている部分に、後付けのものが本当にないのか、また、そもそもどうしてもこれを退任会見というタイミングで公にする必要があったのかということは、まだ、問われる余地がないわけではない。ただ、これを大新聞の報道のなかに見られるような「軽い」「軽率」というニュアンスでとらえるべきものかどうかといえば、それまた違和感を覚える。
退任会見での公表後の、この件に関する大新聞の論調は、一様に批判的だ。それは要するに、この「手段」の危険性を浮き立たせる扱いである。朝日新聞6月6日付け社説「法相の指揮権 見識欠く危うい発言だ」――。
「小川氏は『検察が身内に甘い形で幕引きすれば、信頼回復はならない』と考えたという。認識は共有するが、そのことと法相が捜査について具体的に命じることとは別である」
「不起訴処分がおかしいかどうかは国民から選ばれた検察審査会の場で、やはり証拠に基づいてチェックされる。ほかにも、公務員の職権乱用行為をめぐって被害者などからの請求をうけ、裁判所が裁判にかけるかを決める制度もある。『身内に甘い幕引き』があればこうした仕組みのなかでただすのが筋」
「人々が検察に向ける不信感に乗じる形で、政治があれこれ口を出し、それを当たり前と受けとめる空気が醸し出されることを、私たちは恐れる」
これは、妙な論調である。国家の側が、「国民の信頼が得られない」と主体的に改めようとする姿勢に比して、ここに挙げられている手段が「筋」として強調されることが、こと今回のケースで強い意味があるだろうか。
あえていえば、「朝日」がチェックの場としてふさわしい、ようにいう、その検察審の証拠が偽造されていたことが問われているケースなのである。「不信感に乗じる形で、政治があれこれ口を出す」という表現は、はなからこの件を悪く描こうとする意図すら感じる。小川前法相は「(マスコミは)起訴命のようなものを想定しているみたいだけど、そんなことを考えるはずがないじゃありませんか。しかし、『厳正にやれ』という趣旨のことはいえるんです」と語っている(前出週刊朝日記事)
そもそも発動例で引き合いに出される、検察が動いているものを止める方向で政治が介入するものとは、今回は全く違うというよりも、逆である。いうまでもなく、検察が身内の犯罪に動かないものを、法相が動かす方向の話なのである。これに前者のイメージを被せて、タブー視するような方向に持っていく方向なのだとすれば、それ自体が問題であると言わざるを得ない。人々の不信感があるからこそ、それを真摯に受け止め、動かす話は責められる筋の話ではない。どうも大マスコミは、「民意」の使いどころを都合よく選んで、国民を説得しようとしているように思えてならない。
「指揮権発動」騒動の奇妙な伝えられ方には、本当に問われるべきものを問うということとは、別の意図を感じてしまう。