「裁判官は世論には耳を傾ける必要があるが、これに動かされてはならない」という言い方がある。元札幌高裁長官で、裁判所・裁判官の「フィロソフィの確立」を訴えた横川敏雄氏は著書「総てをわが心の糧に」の中で、この意味について、こう説いている。
「(裁判官は)世論の根底に流れる永続的な価値を有するものには耳を傾ける必要があるが、絶えず動揺し時には暴走する世論には動かされてはならない」
さらに、換言すれば、こういうことだとする。
「裁判官には独善・偏狭などと批判される余地のない物の見方・考え方とこれにもとづく良識が要求される」ということになる」
さて、この、いわば世論の取捨・選択の考え方は、現在、わが国で行われている裁判員裁判の中では、どのように考えるべきだろうか。
「市民の健全な常識の反映」を期待する同裁判で、市民はあらかじめ横川氏がいうような裁判官同様の心構えで臨むことを期待すべきということになるのか、それとも同氏がいう「動揺」や「暴走」をも含まれる世論を反映した裁判員の意見の中から、やはり前記裁判官のフィロソフィに基づき、「健全な常識」は何らかの形で抽出される形にならざるを得ないとみるべきか。
この横川氏は免田栄氏の「獄中記」を読んで深く感銘し、衝撃を受けたことも記している。死刑再審無罪あるいは誤判を生んだ、わが国司法の現実。なぜかその後の「改革」論議でも、一顧だにされていないこのテーマに横川氏は向き合っている。
憲法のもと、最後の判断を下す裁判所・裁判官の責任の重大さ、そして「疑わしきは罰せず」の原理原則を後輩裁判官に強く呼びかけた横川氏は、こう続けている。
「現在わが国では万一罰すべき真犯人をあやまって無罪にしても社会的混乱を招き収拾がつかなくなる虞れはないであろう。今やわが裁判官は自ら社会治安の維持などに意を用いる必要はなく、それを使命とする行政権力のゆきすぎをチェックすれば足りる場にある」
あるべき裁判・裁判所への横川氏のこの確固たる理念が、現在の裁判官の中に、果たしてどのような形で生きているのかは分からない。だが、そのこともさることながら、やはり気になるのは裁判員裁判のことである。
残念ながら、今回の「司法への国民参加」は、横川氏が向き合った現司法の問題としての「誤判」の事実と反省から登場してきたわけではない。「疑わしきは罰せず」も、まして同氏がいうような「社会治安の維持」と距離をおく発想もない。
それどころか最高裁の制度紹介のパンフには、この制度の目的が、国民の重要な利益や社会秩序保護を目的とする刑事司法の中核的な役割を担う刑事裁判に直接国民に参加してもらうことで、刑事裁判への国民の信頼を確保し、その基盤を強固にすることにあると書かれている。
いわば裁判官の職業的自覚として、「世論に動かされない」良識を裁判所・裁判官に求めた横川氏のフィロソフィだったが、時代は裁判所が国民の良識の反映によって、刑事裁判の信頼確保と基盤を固めることを目指す形になった。さらに、職業裁判官による控訴審においては、一審裁判員裁判の尊重がいわれ、事実上、三審制ではなくなる方向すら危惧されている。
制度開始から2年。裁判員制度がその目的を達する方向に向かっているという実感はもちろんないが、「裁く者」のフィロソフィを求められない普段着の市民による裁判は、少なくとも横川氏の描いた裁判所・裁判官のあるべき姿からどんどん遠ざかりつつあるように思えてならない。