議論の前で立ちすくむ。果たして、この議論に乗っていいのかどうか――。いうまでもなく、一度乗れば、最終的にさらに「悪い」結論が導き出される。むしろ、その「悪い」結論を阻止する可能性が見通せない場合である。
残念ながら、この国ではこれまでも、そして現在も、そういう状況が存在している。憲法改正論議でも、今、注目され始めたベーシックインカム(BI)についても、それが当てはまる。
健全な民主主義を信じる人ほど、「議論はいいではないか」という。法律家の中には、特にそういう前提で話をする人は多いように感じる。そして、その前提で前記「悪い」結論とは別の改憲論議の成果に期待しているようにみえる人も沢山いる。
しかも、「悪い」というのは、一方の側の見解であり、当然、そこを疑問視する意見もあるだろう。議論した結果、一方が「悪い」という結果が選択されたとしても、それを「適切」であるととらえた逆の結果が、ある意味「民主的」に選択されただけではないか、と。あたかも、それを受けとめるのが民主主義的な議論のルールのようにいう人もいるし、「悪い」という側にも、そう割り切ろうとする人も少なくないだろう。
しかし、だからこそ、危ういといわなければならない。議論の成熟も(時間やプロセスによっては違う結論が導き出される可能性も)、実は民主主義が本来負うべき少数意見への配慮も省みられないまま、前記「正当性」が振りかざされて、結論が出されてしまうことを、阻止しなければならない局面である。
「提案型」といわれる議論が、まるで議論参加の条件のように言われ始めたころから、実はこれは積み残されてきた課題である。実際には提案できなくても、より悪化が見通せる提案に、断固、阻止の意思は示さなければならない。そうなると、「提案型」推奨の目的は、逆の意見の成就達成を目指す側からすれば、阻止運動の排斥のためのもの、あるいは妥協を引き出すための手段となる。
妥協も議論の果実であると片付ける考え方もあるかもしれない。ただ、妥協しようもない、妥協したらおしまい、という論点は確実に存在する。議論に乗る危うさというテーマは、そこに繋がっている。議論する「正当性」を超えた、ある意味、やむを得ない徹底抗戦論ということになる。
「ひとくちにBIといっても、給付はどのくらいか、既存の所得保障やサービスをどこまで置き換えるか、どんな税制を調達するかによって行き着く社会の形は変わります。場合によっては『低額のBI+自助』だけの社会になってしまうかもしれません」
「両性が等しく働ける条件が整はないまま世帯単位でBIが給付されることになれば、介護や育児、家事を担う報償のように位置付けられて、女性たちをますます家庭に縛りつけかねません」
ベーシックインカムを取り上げた12月16日付け朝日新聞朝刊オピニオン面「耕論」で、拙速な導入論に突き進む危うさを感じている宮本太郎・中央大学教授は、こう的確に語っている。宮本教授も触れているが、この議論にリベラル派だけではなく、新自由主義派や保守派からも導入が提起され、一気にその先行きの危うさは増してきた観がある。
宮本教授は、別に議論がいけないとは言っていないし、こうした方向性に危機感をもったうえでの議論のために、意見を述べているということもできる。しかし、指摘されている前提が今後も見通せない状況は考えられるし、まさに「悪い」結果に突き進む導入論に対して、議論の土俵そのものを作らず、なんとしてでも駒を進めさせないという手段も当然に考えなければならない。
しかし、そうは言っても、結局、行き着くところは「私たち」である。どれだけの人間が、何がどう危ういのか、その思考のスタートラインに立てるのかという課題を、常に大衆は抱えている。もちろん無関心は、勢いのある多数による「悪い」結論に味方してしまうかもしれない。
改憲論議でも、政権の意図や政治状況から一度乗れば、危うい方向に一気に駒を進められかねないことが明白な時に、あえて前記「論議はいい」論に乗っかり、あたかも論議を自分たちの求める方向に誘導できるかのような論を唱える人が野党内にもみられる。しかし、今、それは誰を喜ばせることになるかもまた、明白といわなければならない。
議論に乗って、本当にその先に私たちが求めるものに辿りつけるのか――。私たちの実力を含めて、まず、私たちが直視し、感性を研ぎ澄ますべきなのである。