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 8月15日の朝日新聞朝刊、オピニオン面の「『終戦の日』特集」のなかの川柳欄に、こんな一句が投稿されていた。

  「この日以降日本は戦争していない」

 これを見て、かつてあるアメリカ人が語った次のような言葉を思い出した。

  「ほとんどの人が気付いていないのは、第二次大戦の終結このかた、主としてこの73語(日本国憲法9条の英訳の単語数)の金言のお陰で、日本以外の土地で日本兵によって殺された人間がただの一人もいないという点である。アメリカ、ソ連、それに他の大国と比べて、これは日本人たるもの大いに誇ってよい見事な実績である」

 このアメリカ人とは、湾岸終戦後の1991年3月、アメリカで「第9条の会」を設立し、日本国憲法9条を世界中に伝える運動を展開したことで知られるチャールズM・オーバビー氏である。この言葉が向けられたのは、実は、わが国に存在する「自衛隊」という「軍隊」の存在が、既に9条を現実的に破壊しているという考え方、つまり、ある意味、苦しい解釈論争を強いてきたような現実的なその存在自体が、既に何らかの9条見直しの必要性を意味しているという見方に対してだった。彼は、こうした見方にきっぱりと「与しない」という立場を明らかにしたうえで、逆にその存在がもたらした、日本人が誇りにすべき実績を指摘したのだった。

 この言葉を最初に知った時もそうだったが、今、前記川柳とともに、それを思い出しても、日本人として、同じような奇妙な気持ちにさせられる。日本人は、9条がもたらした不戦の実績を誇りにしているだろうか。いや、むしろ、なぜ、それをオーバビー氏がいうように、正面から世界に対して誇れないのだろうか――。

 もし、誇りとするのであるならば、8月15日は、「あの戦争」と平和に思いを致す日であると同時に、あの日から戦争をしていない「実績」に思いを致す日であってもいい。前記川柳が、何やら見落とされた視点を気づかせるように、掲載され、それを見ることになっていることもまた、奇妙な現実というべきかもしれない。

 現実は、いうまでもなく、日本はいま、オーバビー氏の指摘と正反対の状況に向かっている。「自衛隊」を文字通り「軍」に変え、戦争ができる国にするための9条改正に近づけ、さらに集団的自衛権行使をもって、米国の戦争に結果的巻き込まれていく枠組みを作ろうとする人間が、政権のトップに君臨している。そして、なによりも、経済優先、景気回復最優先の前に、その政権政党に日本国民は大量の支持票を投票している。

 9条を、取り払うべきカセとみている彼ら政権政党の改憲論者が、9条を誇りとする意識からも、そもそも9条が不戦の実績につながっているという考え方からも、およそ遠いことはいうまでもないが、今の日本で起きていることは、日本人の多くが、本心からこの誇りを胸に刻み、掲げていない、その状況のうえに起きているようにみえてしまう。

 むしろ、日本人がこの誇りのもとにやるべきことは、もっとあると考えなくてはならない。1967年、ベトナム戦争の戦争犯罪で、米国とともに、同盟国として日本も裁かれた、哲学者バートランド・ラッセルらによる民衆法廷、いわゆる「ラッセル法廷」。「共犯者」とされた日本は、「一兵も派兵していない」ことが、日本を弁護する立場からいわれたが、結果は8対3の評決で有罪だった。その判決理由には、こうあった。

  「日本政府が用い得たはずの、さまざまな抵抗の方法を考えるならば、特別の責任を強調してよい」

  これが、米国の戦争に対して課せられている、日本が国際的に「無罪」になるためのハードルだった。9条によって「不戦」を国際的宣明している日本は、あらゆる手段を用いて、抑止に当たらなければならない、抑止回避は「共犯」なのである。

 9条がもたらしている「不戦」の実績に胸を張りきれないわが国は、抑止どころか加担に向けて、正反対の道に進もうとしている。アメリカが守ってきた、守ってくれる「平和」という意識、いうなれば「不戦」の実績はアメリカのお陰という意識の前に、あるいは日本人はストレートにオーバビー氏のいうような「見事な実績」を誇れないのかもしれない。

 果たして、これでいいのだろうか――。8月15日は、そのことを日本人が、繰り返し問い直す日であってもいい。



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