〈正当化し得ない国民参加の形〉
裁判員制度はこの国がいかに国民を大切にしない国かを象徴する制度である。
また、誠に残念ながら、基本的人権の擁護と社会正義の実現を目指す弁護士の団体、日本弁護士連合会も双手を挙げてこの制度の立法化に賛成し、法制定後は裁判員裁判に臨む弁護士の訴訟テクニックのノウハウ伝授に一目散である。
国民が裁判に裁判官と同様の地位に就いて裁判に参加させることは、国によって最も大切にされるべき国民の日常の生活を犠牲にすること、国民の心情に配慮せずに駆りだすことであり、到底正当化し得るものではない。
前述のように、国民の裁判参加自体に根本的な疑問が指摘されていること、これまで各国において国民が参加した形の裁判が廃止または縮小していること、陪審大国アメリカでも陪審制に疑問を持っている者もいること、まして人が人を裁くことの倫理的な否定論等を考えれば、裁判員としての動員を容認し得る根拠は全くない。
〈病んでいる国〉
私がこれまで繰り返し述べてきたように、裁判員制度の定める国民の強制動員規定は、憲法の定める、国は国民をまず大切にすべきという根本精神に背馳するものであるばかりではなく、憲法第6章の規定からも決して許されるものではない(拙著「裁判員制度はなぜ続く」102頁以下)。
冒頭に記した裁判員選任手続きへの呼び出しを受けて驚いた私の知人の例を挙げるまでもなく、呼出行為はいわゆる戦前の赤紙と同性質のものであることを、立法関係者も、裁判官も、そして日弁連もよく認識すべきである。司法への国民参加という一見民主的らしく聞こえる言葉に、立法者は魔法をかけられたかのように沈黙し、裁判員法を成立させた。しかし、その法制度の実態は、敗戦まで行われた徴兵制そのもの、国民は国家に尽くすべきものとの意識涵養以外の何ものでもない。
重大な事故を起こし、多数の人命を絶ち、広大な国土を荒廃させ、今なお終息の見通しの立たない原発があるのに、原発再稼働に狂奔している者がいる。太平洋戦争末期、我が国の国土で唯一地上戦が繰り広げられ、兵士とともに多くの一般市民が亡くなり、戦後は1972年まで米軍の統治下に置かれた沖縄が、本土返還後も米軍基地の島として事実上占領されていることによる沖縄県民の苦衷の除去に何ら有効な手立ては講じられていない。むしろ普天間基地の代替基地として辺野古への移転工事が進み益々基地の島の永続化が進んでいる。
新型コロナの感染が拡大し、第3次緊急事態宣言が発出されてなお、オリンピック・パラリンピックを開催すると息巻いている輩がいる。裁判員制度も、これらと同様の状態にあるということだろうか。
一体、この国はどうなるのであろうか。確かにこの国は病んでいる。コロナ感染以上に重大なウイルスに侵されている。
前記最高裁報告書「おわりに」のパロディーにでもなろうか、「改めて国民が刑事裁判に参加することの悪弊を確認し、刑事裁判全体について、刑事訴訟法の本旨に立ち返った裁判を探究するために試行と検証を繰り返す必要がある」。