〈なぞっただけの制度必要性判断〉
判決は、上記のような大前提を示したあと、司法審意見、国会審議における法務大臣の発言、司法制度改革推進本部事務局長の発言を引用し、その内容を一切検討することなく丸ごとこれを肯定し、裁判員制度の必要性について、つぎのように、いかにもわかったようなことを並べる。
「社会経済構造が、国民の自己責任の原則の下に自己の権利・利益の実現を図る社会に変革するであろうとの予測の下に」、司法にも新たな役割が求められる、そのためには司法の国民的基盤の強化が必要であり、その手段として国民の司法参加が必要だという。
何故に、またいかなる道筋で、いかなる形で、社会経済構造が変革するというのか、それが何故に予測されるのか、それと司法とがどう結び付くのか、司法の国民的基盤の強化が必要だと言うのならば、現在の司法の現状について如何なる認識を持っているのか、その国民的基盤は弱体だというのか、その基盤の強化と国民の参加の必要とは何故に結び付くのか等、これらの諸々の疑問に対する説明が十分になされるべきなのにその説明はどこにも見当たらない。
司法審、国会、推進本部の事務局長がああ言い、こう言ったから、或いは最高裁がこう判示したからこの結論に到達したというだけでは、本来独立して証拠に基づき問題の本質に迫るべき裁判所としては国民に対する説明責任を果たしたことには全くならない。
〈予測のつかない変革が立法事実?〉
判決はさらに、国民の司法参加の実現の具体的方策の一つとして裁判員制度が選択された理由について述べる。要するに、刑事裁判は国民に身近な事件、判決の尤もらしい用語によれば「国民の関心も高い司法の機能」であるので、「司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上を効率的に図ることが可能になると考えられたからにほかならない」と断定し、「この制度が憲法の基本原則である国民主権の理念に沿って司法の国民的基盤の強化を図るものであることに照らせば」、立法目的は正当であり、その必要性も肯定できるという。
裁判員制度が国民主権の理念に何故に沿うのか、裁判員法がこの国民主権という用語を敢えて避けて「理解の増進」「信頼の向上」という用語を選択した経緯、つまり国民参加は民主主義とか国民主権とは関係がないことを示すためにかかる曖昧な言葉が選択されたという経緯(柳瀬昇「裁判員法の立法過程」信州大学法学論集9号p230参照)について全く触れることなく、どうしてこのような偏頗な断定ができるのであろうか。
この判決は、今、国民の権利・利益に密接な関係を有する立法をなそうとしているときに、将来に起きるかどうかも分からない、誰も予測のつかない変革に備えて立法をなすことも立法事実であるという。立法事実とは何なのかを全く理解していないと言わざるを得ない。国民の基本的人権に関わる立法事実というのは、本来はどうしても、今、国民の権利を制限し義務を課さなければこの国がおかしくなる、或いは国民の利益が害されるという事態をいうのであって、将来どうなるかの予測のできないことはとても立法事実とは言えない。
司法は今は大変順調に行っている(法務大臣も司法審委員も口を揃えてそう言っている)というのであれば、そこには立法事実はないということである。東大教授のダニエル・フッド氏はその著「名もない顔もない司法」において、「裁判員制度には明確で具体的『立法事実』は存在せず」と明言し(p276)、その理由を詳細に説明している。