〈くじで選ばれる一般人採用の無理〉
控訴審の事実審査について、いわゆる事後審構造を今後も保つべきものとし、第一審尊重を唱える立場においても、「事実問題においても第一審公判中心主義の理想が充実して行われることが前提とならなければならない。第一審の充実は、個々の事件が充分に審理されることは当然のこととして、これを担当する裁判官にも経験豊かな者をあてることが必要であり、また、当事者である検察官、弁護人及び被告人が第一審において攻撃防御を尽くすことが必須の前提となる」と述べる(船田三雄、前掲法曹時報p14)。
国家、社会、組織のいかなる分野であれ、その機能を十分に発揮するためには、各部署にその職務に最適の人材を選び配属することが必要である。それはまた、決して容易なことではない。とりわけ司法の場においては、それを担う法曹の選別、養成が如何に重要かは、国家が歴史的にその法曹養成に如何に尽力してきたかを見れば明らかである。
人を裁く者、つまり民事・刑事を問わず人の生命、自由、財産等基本的人権を直接左右する職務を担当する者は、憲法76条3項を待つまでもなく憲法・法律を理解し、身命を賭して職務を遂行し、独立の気概を持つ人格識見優れた人材でなければならない。憲法76条3項はその当然のことを定めたものであり、凡そ国家が人を裁く場合に裁く行為に関わる者の当然に守るべき事項を条文化したものと解されるものである。その要件に該当しない者は裁き人の資格はない。
裁判員は、基本的に選挙人名簿から無作為にくじで選ばれる一般人である。歴史的には陪審、参審の例があり、現在もその制度を採用している国がある。しかし、ここで予断を抱かずに考えて見て欲しい。裁判という重要な職務を担当する者がくじで選ばれる、つまり原則誰でも良いという発想は、本来は許されないことではなかろうか。
裁判員は基本的には一部の例外を除いて誰でも良いということと同じである。憲法も法律も知らない、いわゆる素人である。勿論、その中には稀に裁判官以上に人格識見豊かな人材もいるであろう。しかし、人格識見が優れていれば人を裁くことができるか、前述のように、人を裁くという重大な行為を人格識見が豊かでありさえあれば、法律知識がなく裁判について何の訓練も受けていなくも可能か、訓練を受けた者と対々で議論ができるかといえば、誰が考えたところで、それは無理な話というのではなかろうか。
無理でないというのであれば、何故に多額の国費と労力を費やして法曹を養成するのか。裁判員法1条に掲げる「裁判員が裁判官と共に刑事訴訟手続に関与することが司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上に資する」という文言は、仮説としても科学的根拠のない、経験則、論理則に反する限りなく妄想に類することである。
〈制度を合憲とするための強弁〉
最高裁大法廷は、前記裁判員制度合憲判決において、「問題は、裁判員制度の下で裁判官と国民とにより構成される裁判体が刑事裁判に関する様々な憲法上の要請に適合した『裁判所』といい得るものであるか否かにある」と前置きし、裁判員制度はくじによって選ばれた者でも選任のための手続において不公平な裁判をするおそれがある者は除かれる仕組みになっており専断的忌避の制度があること、途中の解任制度もあることによって「裁判員の適格性が確保されるよう配慮されている」と述べる。
裁判という重大な行為において責任ある行為をなす者の選任の母体が、前述のとおり衆議院議員選挙権を有する者という広大なものであり、そこから無作為にくじで選ばれた者の中から、前述の裁き人として適格性のある者を、前述のスクリーニングで選び出すこと、不適格者を排除することは本当に可能なのであろうか。裁判長にそのような人を選別する能力があるのであろうか。
この最高裁の判示は、裁判員制度を何としても合憲と言わなければならないために、裁判員には不適格者の選ばれる余地はない、裁判員に選ばれたものは皆適格者なのだと強弁しているに過ぎないものである。