〈職業裁判官への不信の現れ〉
いわゆる先進国と称される国には、陪審または参審という裁判に市民が関与する制度がある。それらの国において一般市民が裁判に関与する仕組みが行われるようになるについては、それぞれの国の歴史があり、国民の司法文化ともいうべき意識があった。
陪審制の歴史については諸説があるけれども、当初は、イギリスにおいて国王がその統治に必要な情報収集としての検地帳の作成への宣誓供述者として存在し、その後、私人訴追者による告発陪審への訴が創設され、証人的なものから次第に審判者へと転化していったと言われる(法律時報64巻5号[以下「時報」という]p26以下、鯰越溢弘「イギリス陪審の歴史と現状」)。
市民の司法参加の典型としての陪審裁判を未だに保っている国がアメリカであることは広く知られている。その制度は「持ち込まれた」ものではなく「克ち取られた」ものであることに注意しなくてはならないと言われる(時報p34、丸田隆「アメリカ陪審制度の理念と問題点」)。しかし、その制度は、冤罪の余りにも多いことなどから、今や問題山積の「遅れた裁判方式」の一つと断定される有様である(伊東乾「ニッポンの岐路――裁判員制度」p102)。
フランスでは、革命初期の最優先課題として刑事司法改革が取り上げられ、市民的権利の重要なものとして捉えられ、硬直化し難解な技術をふりまわす職業裁判官への不信の現れとして陪審制は存在した。その後、度々制度は変更されたが、伝統的な職業裁判官への不信があり、陪審(現在は実質参審)を維持することが司法の理想により適していると信じられているからであろうとされる(時報p40以下、白取祐司「フランスの陪審制はいま何が問題か」)。
ドイツにおいても当初陪審が導入されたのは、フランス同様、官僚裁判官に対する不信感があったけれども、その後、官僚裁判官に対する信頼は強まり、参審制へと移行していったと言われる(時報p46、吉弘光男、本間一也「19世紀ドイツにおける陪審裁判所および参審裁判所導入の過程」)。
〈国民の湧き上るエネルギーとして克ち取られた歴史〉
陪参審制を採用しているいわゆる先進国が、現在の裁判への市民参加制度を採用し、今なおそれが継続しているのは、権力者からの目線で示された「国民一人ひとりが統治客体意識から脱却し、自律的でかつ社会的責任を負った統治主体として互いに協力しながら自由で公正な社会に参画し、この国の豊かな創造性とエネルギーを取り戻そうとする志し」によるものではなく、当初は国王の統治手段としてのシステムから発展し、官僚裁判官に対する不信感、既存の権力に対する反発が根強く存在したところに、国民の湧き上るエネルギーとして克ち取られたという歴史があるからである。