司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

  〈正当化を急いだ最高裁〉

 本来は適法な上告理由には当たらない上告理由について、最高裁が何故判断を示したのか。ここからは多少の憶測が入るが、ほぼ間違いのないことと考える。

 最高裁は、第一審で裁判員裁判を受けた被告人からの「裁判員の職務は意に反する苦役だから憲法違反だ」という上告理由がそれだけでは適法な上告理由に当たらないことは百も承知のことであったろう。この裁判員の国民に対する義務化の憲法問題は、欧米で行われている陪審制・参審制に類似した司法への国民参加制度を我が国にも導入しようという、参加ありきの流れに押されたのか、法制定時までは殆ど議論されることはなかった。人権擁護団体を自認する日弁連さえ、長く陪審制を推進しようとしてきたいきさつから、この国民に動員をかけることの違憲性にまでは思い至らなかったのではないか。

 そのような流れの中で誕生し、国会でも殆どフリーパスした制度の推進に一役も二役も買った最高裁(最高裁・法務省・日弁連共同の大々的新聞広告の反復やその後のホームページ等を見れば明らか)としては、この制度に憲法上の疑念は一つもないとの結論を一刻も早く宣明し、現に多数の裁判員裁判が行われている状況下において下級審に安心して審理に臨めるようにとの配慮があったであろうことはまず間違いあるまい。

 特に、この裁判員強制の問題は、前述のとおり司法審でも国会でも殆ど議論されず、日弁連も論じなかった問題であり、裁判員法上施行までの期間内に、制度について国民の理解と関心を深めることが義務付けられていた最高裁としては(裁判員法付則2条1項)(この付則2条1項自体違憲の疑いが濃厚であることは拙稿「最高裁の広告活動は問題」法律新聞1734号2007年9月14日)、この国民への義務付けが憲法違反だというような意見を述べている余裕はなかったであろう。

 大々的な広告宣伝をして兎も角制度定着に突っ走ってきていた手前、一刻も早く制度は違憲ではないとの判断を示し、その広告宣伝と、本判決末尾で述べている制度推進の意気込みとを正当化する必要があったものと思われる。

 〈どうしても「苦役」でないことにする〉

 しかし、そのような経過で示されたこの国民強制の問題について、最高裁は前述のとおり「義務」や「強制」という言葉の使用を避け、「参政権」「権限」という言葉を用いた。裁判員制度推進論者さえ注意深く避けてきたこの言葉を用い、さらに辞退の柔軟性という言葉を用いることによって、裁判員の「義務」を最高裁は「権限」と表現して事実上消滅させてしまったのである。何故そう言えるのか--。

 最高裁が、裁判員の職務が、苦役ではない、憲法18条には違反しないとする主たる理由が、前述のとおり「参政権同様の権限論」と「辞退柔軟論」であることからすれば、その理由が正当化されなければ、おのずから裁判員の職務は国民にとっては憲法18条に定める「苦役」であるということになろう。

 前述のように、裁判員の職務が心のケアを要することの予測されるようなものであって、現にそのような事例もあり、また裁判員候補者の呼出状に「正当な理由がなくこの呼出しに応じないときは、10万円以下の過料に処せられることがあります」と記載し、義務であることを明示している職務であれば、誰が考えてもそれが参政権と同様の権限であるわけはない。本来は義務なのだが、権利だと思ってその職務に従事した方が良いなどという精神論(コリンP.A.ジョーンズ「アメリカ人弁護士が見た裁判員制度」平凡社新書p220)を説くのとは次元の違うことである。辞退の柔軟性論は、前述のとおり辞退事由のない者に対する罰則付き就任強制の問題に対して何ら論理的説明にはなっていない。

 これらのことからすれば、この最高裁の判決理由は、裁判員の職務は本来は苦役である、しかし苦役であることを認めれば制度は成り立たないからどうしても苦役ではないことにしなければならない、そこで参政権と同様の「権限」と宣言して「義務」を消滅させてしまったものと解されるからである。



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