〈単に人集めのための義務化〉
その裁判員の義務化についてここで少し考えてみよう。国民に対し裁判員となることを義務化することは、義務化しなければ他の国民の人権を危機に瀕させるなどというものではないことは明らかである。単に人集めの手段に過ぎない。
仮に裁判員となることを義務化せず裁判員となる者が一人もいなくなり、裁判員裁判は成り立たなくなったとしても、国民経済や生活の面、国家運営のどれをとっても支障を来すことはまず考えられない。むしろ良いことずくめである。
裁判員制度がなくなっても裁判所では裁判官だけで十分に、裁判員へのコロナ感染を心配することなく迅速に裁判をすることが可能であり、拘束されている被告人の利益にもなる。現に上訴審では裁判官のみによる裁判が行われ裁判員裁判による判決を否定する裁判もなされて、裁判員裁判の意義が問われるなどと評するマスコミもある。
裁判所は辞退者が増える中で裁判員集めに苦労する必要もない。国民は日常生活に余計な負担がかからなくなって万歳である。検察官も裁判員用の特殊なパフォーマンスなどを心配する必要がなくなる。弁護士も然り。裁判員となることを義務化し裁判員制度を維持して良いことは何もない。
元々、裁判員の義務化は、これまで最高裁が何と言おうと誰が考えても苦役を国民に強いる憲法違反であることは間違いがない。裁判員をしてみたいというなりたがり屋にはその機会を奪うことにはなるが、他に誰も困る人はいない。正規に訓練された裁判官だけに冷静に判断してもらえることになる被告人にとってもきっと大歓迎であろう。
裁判員制度というのは元々そのように無い方がマシ、10年余もたって当初掲げられた理念と言われたものも吹き飛び、一部のなりたがり屋か或いは過料の制裁が脅しに過ぎないことを知らない一部の善良な人々によって、細々と運営されるものに成り下がってしまっている制度であれば、本来ならこのような制度は廃止した方がよい、国民を強制させる制度は国民の基本的人権の侵害だ、絶対に許されないという声が多方面から上がっても当然な状況になっていると言える。
つまり、コロナで人を死に至らせる可能性のある感染者を入院させるのに罰則で強制するのは憲法上問題がある、ロックダウンはもってのほかと人権尊重を唱えるのであれば、裁判員にならないことが他に迷惑をかけることなど皆無であるのだから、そして制度そのものがない方がマシであれば、「裁判員にならなければ過料の制裁だよ」などと言ったらそれこそ、「人権侵害だ」「とんでもない」と皆がいきり立っても全くおかしくない筈である。
〈他の人々の人権への配慮〉
しかし、そう言う声は聞こえて来ない。多くの人々は、裁判員制度はコロナのように自分のこととは考えていないのではないか。仮に裁判員候補者になっても別に生命にかかわることではないし、近頃は裁判員候補者に選ばれて無断不出頭をしても何のお咎めもないことが少しずつ知れ渡ってきたので、強制制度があろうがなかろうが自分には関係がないと思っている人が多いのではなかろうか。
つまり、コロナは自分の生命に直接関係する、裁判員の問題は自分とは関係がないということである。
人権は戦わなくても降り注いでくる空気みたいに当たり前にあるもの、そのような意識がこの国の国民には潜在しているのではなかろうか。今、自由と人権が危機に瀕している香港の人々の苦難に思いを馳せる国民は如何ほどいるだろうか。いつか我が身とは考えないのであろうか。
裁判員制度の強制の問題の重要性が忘れられている。人権擁護を旗印とする弁護士の団体も問題視していない。自分に差し迫ったことでなければ問題視しないというこのような現状は、日本の民主主義にとってコロナ以上に怖いことではなかろうか。