裁判員制度の狙い
司法と民主主義の間には、前述のように司法までが民主化しないところに合理的な民主主義の運用があると言われる、いわゆるディレンマ問題があり、その結び目をほどいてゆく道筋として「司法への国民参加の持つ意義を問い直す必要がある」と言って「裁判に市民が直接参加することにより人間の権利や市民の義務ということについて深く考える機会を得て、デモクラシーにコミットした市民の育成が期待される」とか、現在の司法行政権の行使を通じての最高裁判所によるコントロールの存在を踏まえて「最高裁のコントロールを受けない陪審あるいは参審のような国民参加制度は裁判をそのようなコントロールから遮断するという意味での自由主義的意義を有している」と主張する学者もいます(堂本照樹北大教授「司法権-権力性と国民参加」公法研究57号p72)。
民主主義からは導かれないけれども、国民参加を実現したい人が何とかその制度に意味付けをしたいという気持ちが強く伝わって参ります。
このような意見は、一見尤ものように思われますが、何らかの効能があれば違憲、違法であっても許されるという前提がなければ是認できない意見だと思います。
実際に、この裁判員制度の立案、法文化の経緯を見てきた樋渡利秋・元司法審事務局長(元検事総長)、故山崎潮元司法制度改革推進本部事務局長は、規制緩和社会での治安維持のための国民の意識改革ということを強調しているのです。
よく、裁判への国民の良識の反映、市民感覚の導入が目的であるかのように言われますが、これらの意見はそのようなことには触れていないのです。
体裁よく言えば、国民の治安意識教育、一種の思想教育、率直に言わせてもらえば、権力による権力に従順な国民への調教なのです。
裁判員強制は、国民をこのような国民思想教育に無理矢理参加させることです。
裁判員強制の憲法上の根拠
推進本部の委員を務め、制度推進の立場にある酒巻教授は、「この制度の理念あるいは国民的基盤の確立といった非常に高尚なことがうたわれているわけですが、元来この制度は一般国民に対して一方的に負担のみを負わせる改革であるという側面がある・・・一般国民には特に具体的な利益や利便が生じるものではないわけです。・・・真正面から正直に国民の皆様にご負担をおかけする制度である、それをちゃんと説明した上で・・・納税と同じように国民の義務としてお願いした方がいいと思います。」と述べています(法律時報77巻5号p20)。
しかし、納税の義務は憲法に明記されている(30条)のに、明記されていない裁判員義務を、この納税と同じように国民の義務とすることについての根拠は述べられていません。
論者の中には、裁判所や議院の証人の出頭義務の例を上げて合憲化しようとするものも見受けられますが、結論的に合憲説をとる学者(緑大輔、法律時報77巻4号p40)からも、その論拠の正当性は否定されています。
また、災害対策基本法や災害救助法による緊急事態に際しての労務負担とパラレルに考えて、憲法上の規定がなくても裁判員強制は合憲であるとする説もありますが(土井真一「日本国憲法と国民の司法参加」、岩波、憲法講座4、p271)、緊急事態において人を救助することと、国家権力の行使によって人の生命、自由、財産を奪う行為とをパラレルに考えるというのは、到底説得力を持ち得ないでしょう。
まして、災害対策基本法が準用する災害救助法の一般人の協力に関する規定は罰則の強制のない要請であることはどういうわけか記されておりません。
その点からしても、この根拠は全く意味をなしません。