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  〈民主主義的基礎づけ説と理解増進説〉

 国民的基盤という言葉が登場したのは、司法審の審議の過程で、何故国民が裁判手続きに関与しなければならないのかが議論された段階で民主主義的基礎づけ説と理解増進・信頼向上説とが議論され、民主主義的基礎づけ説によれば国民が参加しない裁判には正統性がないということから、現行の刑事裁判の正統性の否定につながるものとして致命的な欠陥を有するものとされた(前掲柳瀬第11号別冊p144)。

 しかし、前記の中間報告においては、国民的基盤の確立という用語にカッコ書きで態々「民主的正当性」と表現されている。国民的基盤とは何なのか、上記引用の文献、報告等の考え方についてまとめてみよう。

 ⑴ まず、司法審意見書であるが、「司法に対する理解が進み裁判の過程が分かりやすくなることによって得られる状態」と解しているようである。

 ⑵ 中間報告は、「民主的正当性」と解している。

 ⑶ 棚瀬教授は、国家権力、社会の既成権力に逆らって司法が法の理念を押し出していくのに必要な、国民とともに考え、国民の支持を得てあるべき社会を先取っていくきっかけを与えるものであり、司法が法の管理を託された専門家によってのみなし得るならば不必要、むしろ有害なものと解している。

 ⑷ 最高裁は、裁判員制度の目的そのものであり、国民の視点や感覚と法曹の専門性との交流による相互理解を深めることによって得られる刑事裁判の実現を目指すのに役立つものと捉えているようである。また、刑事裁判の民主的基盤の強化を図るものとも記しているところからすれば、この国民的基盤の確立を民主的基盤の確立と同義に捉えているのかも知れない。

 これらの意見を私なりに整理してみれば、司法審は当初国民的基盤の確立ということを司法に民主的正統性を与えるものと解していたようであるが、意見書段階では国民の理解増進説すなわち国民が司法や裁判について理解が進んで裁判の過程が国民に分かり易くなることによって得られる効果と解している。最高裁は、理解増進説と民主主義的基礎づけ説の混淆説と解される。


 〈運用実態評価の物差しにならない〉

 棚瀬教授の理解は、これら司法審意見書や最高裁の捉え方とはかなり異なり、それは従来の専門裁判官による裁判の目指すべき指針となるようなものではない。むしろ、それには有害なものだということである。しかし、司法が国家権力や既成権力に逆らって法の理念を押し出していくことに役立つものであるならば、それは法の管理を託された専門家による裁判についても無用であり有害なものになるというのはどうしてなのか、私の能力では些か理解できないところではある。

 ただ、いずれにしろ、この司法の国民的基盤の確立という言葉は、分かったようで分からない、如何様にも解し得る極めて曖昧な概念であり、立法事実として制度制定の根拠となり得るものではない。一方、裁判員法やその改正法の各附則に「司法の基盤強化」という言葉で取り上げられているけれども、その基盤という用語は国民的基盤を意識していることは間違いなかろう。

 司法に国民的基盤の確立が必要だというのであれば、現在の裁判がそれをどの程度充足し、或いは不足しているのか、その具体的根拠は如何なる事実によって指摘し得るのかが明らかにされねばなるまい。裁判員法附則による検討時においても、またその改正法附則によるこれからなされる再検討時においても、それは国民に明らかにされねばならない。

 しかし、前述のように、それは不可能である。何せ、それはその言葉の曖昧さによって裁判員裁判の運用実態の評価の物差しとしての役割を果たしてはいないからである。



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