<慎重な検討必要な憲法抵触>
裁判員の参加する刑事裁判に関する法律、いわゆる裁判員法が2004年5月28日に公布され、2009年5月21日から施行されている。その制度は、死刑または無期の刑に当たるような重大刑事裁判の審理判断に一般市民が参加するというものである。
陪審法が停止されてから、欧米先進国等で採用されている陪審制または参審制のような裁判への一般市民の直接参加制度のなかった我が国に、やっと国民の司法参加の制度ができたと言って、マスコミも含め当初は歓迎する論調が目立ち、最高裁、法務省、日弁連も大々的な広報活動を展開した。その中にはやらせ、さくら、パブ記事のような明らかな行き過ぎもあった。
このような裁判員制度についての風潮に対し、早くから、それは「違憲のデパート」だという厳しい指摘がなされ(西野喜一「日本国憲法と裁判員制度」判例時報1874、1875号、「裁判員制度の正体」)、同様に制度反対の論稿もあった(大久保太郎「裁判員制度実施の不可能性」判例時報1883、1884号、高山俊吉「裁判員制度はいらない」等)。司法制度改革審議会委員の北村敬子教授もこの制度への反対の意見を述べている(日司連中央研修会における基調講演、ネット検索)。
これまでの世論調査において、毎年対象者の7割から8割の人が裁判員となることについて拒否的意向を持っていることが明らかとなった。立法前の司法制度改革推進本部が募集した市民の意見も同様であり、その中にはかなり辛辣なものもあった。立法者に言わせれば、このことは恐らく想定内のことと評するであろう。何せ、裁判に一般市民が参加するなどということは、国民には全く想定外のことだったからである。
司法は近代国家統治機構である三権分立においてその権力の一翼を担うものであり、法による支配を実現するための高度な権力作用である。敗戦後、我が国の司法は憲法76条以下に定められた司法に関する規定に基づいて組織された最高裁判所及び下級裁判所により運営されてきた。その制度を支える裁判官は、最高裁判所裁判官については79条に、下級裁判所の裁判官については80条に、それぞれ任命権者、任期、定年等を定める。また、78条には裁判官の強い身分保障を定め、76条3項はそれらの裁判官の独立を定める。
司法は、前述のとおり法による支配の実現を目指す高度な権力作用であり、その制度の変革については、従来の制度の抱える問題点を検証し、且つその制度が憲法の基本的規定に基づいて約60年に亘り運営されてきたものであることからすれば、その変革がそれらの規定、その他関連する憲法の諸条項(特に国民の基本的人権に関する条項)に抵触するか否かを慎重に検討することが求められる。
<批判に耐え得るほど望ましいものなのか>
さらに憲法問題が仮にクリアーされたとしても、改革によって司法制度としての完成度が増すのかどうかの検討が必要である。即ち、司法制度の変革が真実の発見、公平且つ適正な憲法等法令の解釈適用、基本的人権の擁護機能の向上、これらの理念を全うすることによって得られる信頼性の向上に真に貢献するのかどうかの検討が欠かせない。裁判員法第1条は、裁判員が刑事裁判に関与すれば司法への信頼が向上するかのような仮説を展開するが、極めていかがわしく、厳密な検討が必要である。
我が国でも嘗て陪審裁判が行われた時代があり、その陪審法は停止されたままである。裁判所法3条3項は「刑事について、別に法律で陪審の制度を設けることを妨げない」と定め、陪審制度を容認しているかのようである。しかし、憲法の司法に関する条項と整合しうる陪審制度なるものが、裁判所法制定当時どのように考えられていたかは不明である。
私は、陪審制、参審制と言われる制度のどのような形をとろうとも、前述の憲法の定めに適合する裁判官以外の者が、その裁判官の判断を拘束する形式のものは憲法に違反するものと考える。
しかし、ここでは、そのような陪審制、参審制そのものの憲法論ではなく、それが国民の司法参加の一形態であって、司法の民主化に資するとの評価によって賛意を示され(ジュリスト1268号の座談会意見等)、立法府の審議においても殆どフリーパスであったことについて、国民の司法参加と通常称されるものの実態は何であり、それは果たしてそのように批判の余地のないほど望ましいことなのかどうかを中心に、施行後3年を間近にして改めて検討して見たい。