〈司法倒壊を止める最低条件〉
司法をブロック塀に例えるのもどうかと思うが、形ばかりの塀で、小さな地震程度には耐えても、少し大きい地震でぐらつく、さらに大きい地震がきたら倒壊してしまう塀だとしたら、それは単に役に立たないだけではなく、取り返しのつかない大きな被害を与えるかも知れない。
これまで、裁判員制度について出された前述の諸意見を含めて、その制度に反対その他の批判的意見の結論は、国家三権の一つであり弱者の最後の砦である司法は、その本来の機能を果たすことができなくなるという危険性の指摘であった。
最高裁判所は行政に追随し、下級裁判所は、こと裁判員制度については黙して語らず、語れず、裁判官の独立はどこに吹き飛んだのかと思われる状況に陥っている(講談社現代新書「絶望の裁判所」瀬木比呂志著、82頁)。
裁判員制度が司法を変質させるに至った元凶は、なんといっても2011年11月16日(あの大震災のあった年)の最高裁判所の裁判員制度に関する判決であろう。日本の裁判所は、それ以来、一つも裁判員制度を批判することはなくなった。前記の瀬木氏に言わせれば、仮に「制度を表立って批判したとしたらとても裁判所にはいられないというような雰囲気となっている」という(67頁)。
前述のように、多くの学者、元裁判官らからの危険性の指摘がされている制度について、その制度を違憲と考えるならば、裁判官は当事者の主張を待たずとも、裁判員制度は違憲の法制度であり、その制度による裁判はできないと判断すべきなのに(小学館101新書「裁判長!話が違うじゃないですか」池内ひろ美、大久保太郎著、214頁)、そんな気配は全く見られない状態になっている。裁判所では、瀬木氏が述べるように、こと裁判員制度に関しては暗黙のパワハラがなされていることになる。
ブロック塀の安全性を高めるために、高さ制限やら、支柱的役割をする補助塀の設置が義務付けられた。塀には、他からの侵入を防止し、他からの覗きを防ぐこと、境界を明確にすることなどの目的があるかも知れないが、いずれにしても、それが倒壊しては元も子もない。司法も同じである。強固な地盤の上に数々の補強策を講じられて建つことが最低の条件である。
〈使命達成を忘れた被害は全国民に〉
国家三権の一つであり、正義の支柱である司法は、国民の人権、弱者の保護の最後の砦である。それは国民による強固な支持を基盤とし、正義の府として政治的圧力の一切を排除し、ひたすら憲法とその下に成立した法律のみを頑固に守ることに専念すべき使命を有するものである。
その使命の達成を忘れ、国民からの支持を失うことになったら、それによる被害は全国民に及ぶことになる。全国民がブロック塀の下敷きになるということである。
裁判員制度の刑事司法に及ぼす被害のみではなく、同制度については、裁判員経験者によるASD(急性ストレス障害)の発症、裁判員辞退による開廷不能状態の現出、裁判員批判の上訴審による破棄の頻発、裁判員候補者の辞退者の増加、無断不出頭者の増加による偏った裁判員構成の現出、公判前整理手続きの長期化による被告人身柄拘束期間の長期化、部分判決制度による直接主義の否定等々、刑事裁判の現状は前述の危険性の指摘が図星であることを物語るものとなっている(「マスコミが伝えない裁判員制度の真相」猪野亨外著、花伝社に詳しい)。しかし、この制度は、未だに細々ながら続いている。