〈なぜ、大法廷判決にこだわるのか〉
これまで私も何度も批判してきた最高裁大法廷2011年11月16日判決(いわゆる裁判員制度合憲判決)については、西野喜一新潟大学名誉教授も「さらば裁判員制度―― 司法の混乱がもたらした悲劇――」(ミネルヴァ書房)において約100頁を割いて実に詳細に分析、批判している。
私を含め、なぜこれほどまでにこの大法廷判決にこだわってこれを批判しようとするのか。同教授も同著で記しているように、この判決が、「つい10年ほど前には最高裁の裁判官の大方が憲法上の疑義があると考えていたという問題」について反対意見、補足意見等が全くないことの「不自然さ」「不気味さ」を感じさせ、「それが仮に、最高裁の危機意識の現れではあるとしても、もはや司法とは言えない」「裁判官の独立に対する侵害であることは明らかで、司法の自殺とも言うべき事態」(同著p218)と評し得る、危機的認識を抱かせるに十分なものだったからである。
木村草太首都大学東京教授も「憲法の創造力」(NHK出版新書)において「15名の最高裁の裁判官全員が、平成23年判決の論証を一致して支持する事態は、日本の司法への信頼に疑問符をつけるに十分な事態である」と述べている(p113)。
本来なら議論百出し、結論を導くのに賛成反対の意見が伯仲し困難を極める、法廷意見がどちらに転ぶにしろ、必ず意見、補足意見、反対意見が述べられる性質の事件であった筈なのに、落ち着き先は全員一致、一切の意見の表明はなかったということは、西野教授、木村教授ではなくても鳥肌の立つほど恐ろしいことではないかと思う。
〈行政の暴走を憲法的視点で制止する使命〉
何せ、この大法廷判決構成裁判官になる前の大法廷構成裁判官の大方が違憲の疑いを抱いていた問題の制度について、正に掌を返すように100%合憲のお墨付き与えるもの、民主主義国家という本来多様性を本質とする国家において、良心の塊り、何者をも恐れない独立心旺盛な多士済済の集まりである(べき)裁判所であれば有り得ない、有ってはならない状態だからである。
つまり、この判決は、裁判員制度に関する事件について、国家権力の一翼ではあるけれども本来立法、行政の暴走を憲法的視点に立って制止することをその使命とする、いわば国家機関であって国家機関ではないとも言うべき最高裁が、その使命を果たすどころか、その放棄を国民に対し宣明したということである。
その全員一致判決の内容が従来の大法廷判決を無視し、上告趣意を捏造し、正当な上告趣意に対する判断を遺脱したものであれば(拙著「裁判員制度はなぜ続く」花伝社)なおのこと、その判決をいかに非難しようともしきれるものではない。