司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>




 〈人権の上に置かれる別の価値〉
 

 その他にも、世界各地では人権侵害行為が絶え間なく繰り返されている。その原因は様々であろうが、多くに共通していると思われることは、人権、つまり掛替えのない個人の生命、精神、身体の価値よりも、その上に別の価値、例えば権力の維持・確保、財力の保持・拡大などの価値を置くことではないかと思う。

 開催の是非はともかく、オリンピックで己の持てる力の全てを出し切って戦う姿は実に気高く、勝敗に関係なく素晴らしい。それはなぜか。スポーツの世界で人間の持てる肉体と精神、知能の全ての力を出し切り、互いに相手への尊敬心を保って平和的に戦うというスポーツ精神に則ってひたすら勤しむ姿に人間としての美を見るからではないか。要するに、その行為には掛替えのない人間としての尊厳のみが最高位の価値として置かれているからではないか。

 前述の、各国の人権無視の諸事象は、その価値の上位に、権力者は自己保身を、財力のあるものはさらなる財力の確保の意図を置いている。つまり、動機が常に不純なのである。

 人間社会では、日々種々の場面で解決しなければならない課題に直面する。その課題の解決のためには、相反する諸事情、利害関係を総合考慮して判断することになるが、その場合に常に考慮されなければならないことは、個々の人間、人格、特にいわゆる社会的弱者の人格尊重の理念でなければならない。この地球は全ての人間、特に弱い者も貧しい者も等しくその尊厳を保つために存在する。国家とか会社とか、その他の人間の集団の力や利益が個々の人間の価値を上回ることは本来許されることではない。


 〈司法の価値基準〉
 

 人間の社会では紛争は避けられない。紛争の解決には、その解決の手続きと紛争実体の解決のためのルールが歴史的に確立されてきた。それは国家以前の人間の集団の中においても存したし、人間が国家という集団を形成するようになってからは、法を定め、それによって解決することとされた。

 その法は、近代国家、特に民主主義を標榜する国家においては、人権の尊重を基本原理として掲げるようになった。我が国では戦後成立した日本国憲法とその下に制定された法令がそれである。

 かつて最高裁判所裁判官に任命された外交官出身の下田武三氏は、1971年の裁判官就任後、「裁判官は体制的でなければならない。体制に批判的な考えを持つ人は裁判官をやめて政治活動すべきだ。」と言ったという(当時発行の新聞赤旗)。とても信じられない内容である。就任後の最高裁裁判官国民審査では、総投票数の15.17%の人が罷免を可としたという。その罷免可の率は現在に至るまで破られていないとのことである。

 裁判官が政治絡みの事件について判決をする際に、憲法と法律という判断基準のほかに、体制的でなければならないという判断基準を持ち出すことは、憲法76条3項に明確に反するものであり、かかる思想、信条の持ち主は裁判官としての適格はなく、即刻辞して、体制的政治活動に邁進すべきであったであろうが、彼は就任後罷免されることはなく、辞することもなく、定年までその職にあった。

 裁判官は、ときの政権がいかなる政策を掲げ立法化に漕ぎつけたとしても、自己の良心に従い、憲法と法律の正しい解釈、適用を全うすべきは常識中の常識といってもよかろう。その意味で、下田氏が国民審査で打ち立てたワースト記録が今も維持されているということは、それなりに国民の健全性を示すものといえよう。

 しかし、また別の見方が可能かもしれない。裁判官が、内心では下田氏と同じ考えを持っていても、そのようなことはおくびにも出さず、自己の担当する事件ではさりげなく尤もらしい理屈を並べて体制順応的判断を下すということが行われるとすれば、それこそ背信行為であり、歯に衣着せない下田氏の方がまだましだという考えもあるかもしれない。



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