〈忌避申立却下決定への違和感〉
この一連の裁判官忌避の流れと忌避申立て却下決定については、これまでの司法界の感覚としては或いは左程違和感なく受け止められてきたのではないかと思われる。この最高裁大法廷決定の判例解説(前記法曹時報)は、最高裁長官の司法行政事務と忌避事由との関係として先例の判断手法を踏襲した決定と評している。
しかし、私はこの決定に接して、果たして先例の判断手法に従ったものと簡単に割り切れるものなのか、「不公平な裁判をする虞」とは一体いかなることを言うのかを考えたとき、この決定の判断には強い違和感を持ったので、その点について以下に述べてみたい。
〈最高裁は器用な官署か〉
私はかつて「法令審査権を有する最高裁と裁判員制度の宣伝広報をする最高裁とは同一ではあるが、最高裁というところは二つの顔を何ら違和感なく使い分けることのできる器用な官署であるとでもいうのであろうか。国民はその使い分けをそうたやすく信ずることはできないのではないか。
裁判員制度の宣伝広報に巨億の税金を注ぎ込み、庁舎を整備し、法施行後に裁判員に旅費日当を支払ってなされた刑事判決の上告審において、最高裁は裁判員に評決権を与えた一審判決は憲法に違反するから無効であると判断することが果たしてできるであろうか。」と述べた(前掲拙著p36)。
〈司法権を担うものの裁判員制度との向き合い方〉
立法権、行政権から独立した存在としての司法権を担う最高裁が、裁判員制度という戦後最大の司法制度の変革を前にして、それとどのように向き合うべきかについてはいくつかの選択肢があり得たであろう。
前述のように、裁判員法付則2条1項に規定された、制度について国民の理解を深めるための対応、国民の自覚に基づく主体的な刑事裁判としての参加が行われるようにするための措置という表現は極めて抽象的、大雑把なものであり、具体的な対応・措置については広範な政策的判断が要求されたであろうと思われる。
最高裁は、最終的に違憲法令審査権を有し、早くからその違憲性が指摘されていた裁判員法についての国民の理解の得方、主体的参加の得られ方については、司法権を担うものとして公平中立性の保持義務による制約は当然に神経質過ぎるほど考慮さるべきことであって、行政府たる政府の方策とは異なるべきものであり、常にその点の慎重な配慮は欠かせなかった筈である。
〈最高裁は裁判員制度の評価を自制すべき〉
そのうち最も重要なことは、具体的事件において違憲法令審査権を行使するまでの間はその制度の評価に関わる表現は避けることが第一であった。特に前記の付則で規定していることも、「この法律の施行までの期間において」と期限が付されている(施行後発刊された六法全書にはこの条文は省略されているものが多い)。
施行後はその規定にある諸措置の義務は消滅する。粛々と裁判員法の規定に従って第一審裁判員裁判の手続の実施に支障をきたさない施策をとることに徹することが司法府としての務めであったと考える。