〈裁判員制度制定で頻出する言葉〉
裁判員の参加する刑事裁判に関する法律いわゆる裁判員法が施行されて今年5月で10年になる。裁判員法附則9条が、施行3年後に法律の施行の状況について検討を加え、必要があると認めるときには所要の措置を講ずることと定めたことにより、裁判員法の一部を改正する法律が制定され、2015年6月12日公布された。改正法附則3項にも、「政府は、この法律の施行後3年を経過した場合において、新法の施行の状況等について検討を加え、必要があると認めるときは、その結果に基づいて、裁判員の参加する裁判の制度が我が国の司法制度の基盤としてより重要な役割を果たすものとなるよう、所要の措置を講ずるものとする」と定められた。この改正法附則の文言は、裁判員法附則9条とほぼ同じ文言である。
ところで、2001年6月12日内閣に提出された、裁判員制度の制定を提言する司法制度改革審議会の意見書には、その提言を、「国民的基盤の確立」と題する項目の中で示している。
「21世紀の我が国の社会においては、国民は、これまでの統治客体意識に伴う国家への過度の依存体質から脱却し、自らのうちに公共意識を醸成し、公共的事柄に対する能動的姿勢を強めていくことが求められている。国民主権に基づく統治構成の一翼を担う司法の分野においても、国民が自律性と責任感を持ちつつ、広くその運用全般について多様な形で参加することが期待される。国民が法曹とともに司法の運営に広く関与するようになれば、司法と国民との接地面が太く広くなり、司法に対する国民の理解が進み、司法ないし裁判の過程が国民に分かりやすくなる。その結果司法の国民的基盤はより強固なものとして確立されることになる」
「司法がその機能を十全に果たすためには、国民からの幅広い支持と理解を得て、その国民的基盤が確立されることが不可欠であり、国民の司法参加の拡充による国民的基盤の確立は今般の司法制度改革の三本柱の一つとして位置付けることができる」
「訴訟手続は司法の中核をなすものであり、訴訟手続きへの一般の国民の参加は、司法の国民的基盤を確立するための方策として、とりわけ重要な意義を有する」
「一般の国民が、裁判の過程に参加し、裁判内容に国民の健全な社会常識がより反映されるようになることによって、国民の司法に対する理解と支持が深まり、司法はより強固な国民的基盤を得ることができるようになる」
「広く一般の国民が裁判官とともに責任を分担しつつ協働し、裁判内容の決定に主体的、実質的に関与することができる新たな制度を導入するべきである」
「実施後においても、当初の制度を固定的にとらえることなく、その運用状況を不断に検証し、国民的基盤の確立の重要性を踏まえ、幅広い観点から、必要に応じ、柔軟に制度の見直しを行っていくべきである」と記す。
一部省略したが、ほぼ原文のままである。標題を除いて、その項目の中で「国民的基盤の確立」という言葉が実に6回も出てくる。
これに先立つ1999年11月20日の司法制度改革審議会中間報告においても、「国民が、裁判の過程に参加(関与)し、裁判内容に国民の健全な社会常識がより反映されることによって、国民の司法に対する理解・支持が深まり、司法はより強固な国民的基盤(民主的正統性)を得ることができるようになる」と記されていた(「5.国民の司法参加――国民的基盤の確立――」⑵ア)。
〈目的とする規定も定義付けもない〉
2009年1月、棚瀬孝雄教授編集にかかる「司法の国民的基盤……日米の司法政治と司法理論」が日本評論社から刊行された。同教授は、その序章で、裁判員制度との関わりで国民の司法参加について論じ、「日本の司法と、アメリカの司法を対比して、主権の観念に違いがあり、それが司法参加の日本における消極性を、またアメリカでは国民の司法政治と呼応する積極的な司法審査をもたらしていることをみてきた。……この日本の主権観念が、アメリカのような国民への信頼、そしてその政治への信頼に基礎を置くものに変わっていく可能性はあるのだろうか……実体的国家観に基づく政治制度や社会構造は解体されてきてはいるが、まだ、それに対応する、国民の有能性は十分に構築されていないようにみえる。しかし、有能でないから任せられないという不信を前提とした制度では、いつまでも有能な国民は育たない。一歩前へ出て、本当の意味で司法の国民的基盤を作っていくために、国民を信頼することはできないだろうか」(p46)、「日本でも司法の役割がこれから高まっていくとすれば、この国民的基盤の違いに目を向けて、もう少し国民を関わらせていくような制度構築を考えていくべきではなかろうか」(p48)と説く。
司法の国民的基盤の意味について、前掲棚瀬教授の編著は、はしがきで、「『刀も財布ももたない』司法が、国家の権力や社会の既成権力に逆らって法の理念を押し出していくためには、司法は国民とともに考え、国民に支持されて、あるべき社会を先取っていかなければならないのであり、それが司法制度改革でいわれた『司法の国民的基盤』である。」と定義付け、「司法が、法の管理を託された専門家によってのみなしうるものであるならば、あえて国民的基盤は必要がないし、むしろ有害ででもある」と説いている。
裁判員制度合憲判決と評される最高裁大法廷平成23年11月16日判決は、上告理由に対する判断としてではなく、「裁判員制度は司法の国民的基盤の強化を目的とするもの」と断じ、「それは、国民の視点や感覚と法曹の専門性とが常に交流することによって、相互の理解を深め、それぞれの長所が生かされるような刑事裁判の実現を目指すものということができる」と説く。
この最高裁判決の判示部分は明らかに蛇足であり極めて政治性の強いものであるが、それはさておき、裁判員法は、そのような、司法の国民的基盤の強化を目的とするなどとは定めていない。法は、裁判員が刑事訴訟手続に関与することが司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上に資すると決めてかかっているだけで、それを目的とするものだなどとは定めず、また、そのことが司法の国民的基盤の確立だなどと定義付けているわけでもない。もとより、その法文は仮説であって全く根拠のないものであるが。
大法廷判決は、この国民的基盤の確立の用語とは別に、「刑事裁判に国民が参加して民主的基盤の強化を図ること」とも記している。そして、「欧米諸国においては……18世紀から20世紀前半にかけて民主主義の発展に伴い、国民が直接司法に参加することにより裁判の国民的基盤を強化し、その正統性を確保しようとする流れが広がり、憲法制定当時の20世紀半ばには、欧米の民主主義国家の多くに陪審制か参審制が採用されていた」と判示する。
司法と民主主義との関係については、いわゆる司法ジレンマ論(兼子一「裁判員法」有斐閣p20)を初め、前記司法審意見書においては国民の裁判参加が民主主義と関連付けられることについては否定されたものであることは、その制度の提案に至った司法審の審議経過を詳細に検証した柳瀬昇教授の論文(「裁判員法の立法過程」信州大学法学論集第8号別刷p124)によっても指摘されているところである。
以上に述べた、司法の国民的基盤と表現されることの具体的意味は何なのか、何故にそれが裁判員制度制定の根拠になり或いは目的と称されるものになったのかについて改めて考えてみたい。