〈審議会の裁判員制度に対する国策としての位置づけについて〉
前記中間答申に明示され、意見書にも「我が国は直面する困難な状況の中にあって、政治改革、行政改革、地方分権推進、規制緩和等の経済構造改革等の諸々の改革に取り組んできた。これらの諸々の改革の根底に共通して流れているのは、国民の一人ひとりが、統治客体意識から脱却し、自律的でかつ社会的責任負った統治主体として、互いに協力しながら自由で公正な社会の構築に参画しこの国の豊かな創造性とエネルギーを取り戻そうとする志であろう。今般の司法制度改革は、これらの諸々の改革を憲法のよって立つ基本理念の一つである『法の支配』の下に有機的に結び合わせようとするものであり、まさに『この国のかたち』の再構築に関する一連の諸改革の『最後のかなめ』として位置付けられるものである」と記されている。
これが審議会の裁判員制度制定提言の「かなめ」と言って良かろう。
〈その理解の本質は個人主義から国家主義への変貌〉
意見書には中間報告にある「国家への過度な依存体質から脱却し」と言う表現こそ使われてはいないけれども、中間報告、意見書、最高裁判決に見られる司法への国民参加というキーワードには、国民に対し、国民は国家に甘えてばかりいてはいけない、国家の仕事に関与し責任を持つという意識を醸成し国家に奉仕しなければならないという、個人主義から国家主義への変貌の構図が透けて見える。それは正に憲法13条の理念の没却であり、自由民主党が2012年4月27日に決定した日本国憲法草案13条の先取りである。
裁判員制度と民主主義の関係については、私はこれまで「裁判員制度に見る民主主義の危うさ」(「裁判員制度廃止論」p39以下)、「裁判員制度は国民主権の実質化か?――裁判員の民主的正当性について」(「裁判員制度はなぜ続く」p22)において論じたが、上述のように改めて審議会の中間報告、同意見書、最高裁大法廷判決を読み直してみれば、個人の尊厳という民主主義にとって最も重要な価値に対する配慮を疎かにし、いわばそれらを落し物として「国民の健全な社会常識を反映させるため」とか「国民の視点や感覚と法曹の専門性との交流」など国民を尊重するような表現を巧妙に使いながら、実体は国民に対してその自由な意思に反しても国家権力の行使に加担させようとする姿勢を実に露骨に示している。
その典型が、意見書中の「裁判所から召喚を受けた裁判員候補者は出頭義務を負うこととすべきである。」「被告人は裁判官と裁判員とで構成される裁判体による裁判を辞退することは認めないこととすべきである。」という、つまり裁判員の強制と、被告人の選択権の否定の提言である。
一般国民に対しては国策に従順であることを命じ、刑事裁判においてはその人権を尊重されなければならない刑事被告人の裁判を受ける権利の制限である。
裁判員制度がそのような個人の尊重ではなく本質的に国家主義的なものであるのに、人権尊重の理念を掲げる日弁連が何ら批判の立場をとらず、むしろ推進の立場に立っていることは私には何とも解せないことである。
そして何より注目されなければならないことは、かかる司法への国民参加制度は、多くの国民が現行の司法の在り方に対し強烈な不満を持ち、そのため、その改革を求めて湧き出した情熱によって発案されたものではなく、審議会の誰が発案したものかは定かではないが、国民はこれまで国家に対し「過度の依存体質」を持っている、つまり甘えっ子になり過ぎているから、もっと国家社会のために積極的に役立つ姿勢を強めなさいと諭し、手っ取り早く権力行使を自覚させ得る裁判員に就くことを強制するものとして上からの力によって形成されたということである。