戦前の治安体制下のわが国で、思想、言論、信教にわたる厳しい弾圧と統制の主役を演じたことで知られる「特高警察」。実は、この体制を「司法」という機構を通して、強固に支えた、もう一人の立役者がいた。「思想検察」である。
最強・最大の弾圧法である治安維持法の活用者であるのみならず、「拡大解釈」の論理を積み上げていった、いわば「開発者」だった彼らは、「転向」政策の推進力となり、保護観察制度や予防拘禁制度を支え、やがて「思想司法」といわれるように、司法全体をその影響下に置くことになる。彼らもまた、紛れもなく、この国の悪夢のような時代を支えた人間たちだった。
その成立過程や役割などについては、荻野富士夫氏が書かれた「思想検事」(岩波新書)という本に詳しい。1917年ロシア革命、18年米騒動に始まる社会運動の機運、デモクラシー、社会主義運動の広がりを危険視し、弾圧しようとする国家権力の強い要請が、彼らに登場の時を与えることになる。
1925年治安維持法成立、27年司法省刑事部への「思想部」創設を経て、28年治安維持法を含む広範な思想犯罪事件処理と原因調査を行う専任の「思想検事」が誕生する。やがて「調査」は「転向」方策へ力点が移され、当初26人の定員は、41年には3倍の78人まで増強され、地裁検事局検事については、全体の1割強を占めるに至る。
共産主義への弾圧は、やがて「国体」に反するもの、すべてへの弾圧に変わっていく。その流れを常に法的根拠を作って、リードしたのが彼らであったと言っていい。そして、さらに恐ろしいのは、公判、行刑、保護観察あるいは予防拘禁に至る思想犯処理のプロセスという、いわば「思想司法」を思想検察が事実上、一元的に掌握・指揮するに至ったことである。結果として、司法権の要である裁判所・判事も、彼らの法解釈を踏襲した判決を下し、「思想司法」の一員としての役割を担ってしまう。
同書で書かれている「いかに効率的に思想犯を処理するか」というテーマの前に、「法的正義」の捻出に腐心する法律家たちの姿は、「いかに効率的にユダヤ人を抹殺するか」に腐心して絶滅収容所を編み出すナチスエリートたちにどこか似ている。
敗戦後、思想検事の多くは、罷免を免れただけではなく、戦後司法の中枢を占めていく。この本の最後で著者も、その彼らの戦後における自省なき姿勢と、戦後公安警察への継承を、日本の治安体制の問題として提起している。
彼らを時代の産物として見る見方もあるかもしれない。まるで、自身がこの国のある一時期、狂信的宗教信者のようにその時代の「思想」にとりつかれた検事であったというように。
しかし、そうみるべきではないだろう。彼らは権力にとっての「時代のニーズ」に忠実にこたえた。肝心なのは、その発想に立つ法律家が、いかようにも「法的正義」を作れるということであり、彼らはその一つの事例であるということだ。
今、クローズアップされている現代日本の検察の体質的問題に、その驕りともいえるものをはらんだDNAが受け継がれているのか、いないのか、そのことがやはり気にかかる。