明治大学法科大学院教授による、教え子への司法試験漏洩事件を受けた法務省のワーキングチームによる再発防止策の検討が進められているが、焦点は、やはり法科大学院教員の関与であることが伝えられる。既に法務省は、2016年度に限り、考査委員から法科大学院の現役教員を外す暫定措置を取ったが、2017年度以降も現役教員を除外するべきかどうでは、ワーキングチーム内では意見が分かれているといわれる。
憲法などの学術的な分野での作問が実務家だけでは困難という見方があり、また、学説への精通度でも学者排除の無理を指摘する声は、実務家の中にもある。さらに、そもそも新法曹養成制度における司法試験は、あくまで法科大学院教育の「効果測定」であるという建て前からすれば、今回のような事態に対して、一見して「特効薬」になるようにとれる全面排除策はとれないという理屈が用意される制度であるといってもいい。
しかし、それはともかくとして、こうした「関与」の在り方が焦点となっている再発防止策の検討には、どうしてもある種の欠落感を覚えてしまう。もちろん、現実的な司法試験制度への影響を考えれば、今回のような事態を再現し得る可能性を減らすという意味で、排除を含めた法科大学院教員の「関与」の在り方が現実的な喫緊の課題になることは当然といえば当然のことだ。
ただ、それでおさめてしまうには、学者としても考査委員としても、それなりの実績を持つ今回の教授が引き起こした事件は、あまりにも「資質」と言う意味で度外れているといわざるを得ない。公平でなければならない法律を研究することを仕事にし、かつ公平な運用にあたるべき法曹養成に携わる法律家による試験問題の漏洩。個人的な感情、いわば「できごころ」のようなストーリーがメディアを通して流され、現に国家公務員法違反に問われた法廷でも彼の弁明はそういう趣旨になる。
しかし、なぜ、彼がそうした不正に手を染めたのか、と同時に、なぜ、彼がその地位にいたのかということが問われなくていいのだろうかという思いが残る。もちろん、この一例を持ってして、すべての法科大学院の研究者教員が彼のような不正に手を染めかねない「資質」の持ち主とみることはできない。ただ、この事件を前記したような、職責としてあり得ない「資質」の人間がその地位にいた、という問題から、この事件を遠ざけようとするほどに、当然、当該教授は「例外」という扱いにしたい欲求が働くし、現にそうした扱いととれる論調も聞かれる。有り体にいえば、たまたま混入した出来のよくない人材が引き起こした事案、というカテゴリーに極力押し込めるという話である(「司法試験問題漏洩事件が浮かび上がらせた現実」)。
一方、前記した「排除」必要論は、この件をあくまで誰でも踏み外す、個人的感情のワナを前提にしているようにとれる。当該教授に限らず、他の研究者についても「資質」としてワナを超えられない可能性を一般的に前提にしているととれば、前記した今回の事案を例外としたいベクトルとは反する。だから、本当に全面排除とれば、その意味では「資質」確保の断念、もしくは「資質」のハードルを下げる選択という見方もできてしまう。
しかし、この「関与」という捉え方は、社会に対する目に見える対策という面がある。これを検討するほどに、直接的な再発防止策を模索しているという形で社会に伝わることになるだろう。
要は、この司法試験からの「排除」は前記したように制度的建て前と作問への支障の前に徹底化はされず、一方で、それによって前記今回の事件を、他の研究者とは関係ない、非常にレアな人材が引き起こした事件に押しとどめたい欲求(あるいはプライド)が貫徹されることになれば、結局、根本的な「資質」劣化の問題、「なぜ、彼がそこにいたのか」にはたどりつけないまま、この事件が終わるような気がしてならないのである。
あたかも「大学教授も人間である」というように、誰でも個人的な感情を元に道を踏み外すことはある、そして、たまにはそういう人物が混入することもある、という捉え方は、社会に対して、それなりの説得力を持ってしまうかもしれない。ただ、それが一理あったとしても、あるべき法曹の未来を担っているはずのポジションの人間に、それがあり得ないことを求めることは必要ではないだろうか。
結果的に問題漏洩した学生に対して、この行為自体が、まるでその研究者本人だけではなく、これから法曹になる人間にとっても、自己矛盾するようにふさわしいものではないこと。仮に志望者から求められたとしても、「不正して法曹になっても通用しないし、意味かない」と説諭することもできなかった人物が、なぜ、長く権威のごとく、この世界にいたのか。「排除」はもっとずっと前になぜ、行われなかったのか。個人的感情の前に、とそこまでの「資質」も私たちは彼らに求められないのか――。
この事件の再発防止策の検討の先にも、結局、この根本的なテーマにたどりつけない、「断念」が既に見えてきているように思えてならないのである。