司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 

 令状発付をめぐる裁判官の責任が問われた裁判に判決が出された。地検が公判中に拘置所の独居房を捜索し、弁護人への手紙などを押収した捜査の違法性が争われた訴訟の控訴審で、大阪高裁は4月22日、接見交通権侵害を認め、国に賠償を命じた1審を支持したが、捜索令状を発付した裁判官の責任は認めなかった。

 

 司法はこの事件で違法捜査を認め、秘密交通権の重要性も、捜査の必要性に比した被告人の不利益についても判示しながら、その捜査を認めた裁判官の責任を不問にしたことになる。報道によれば、その理由は、令状請求の際の捜査資料では証拠隠滅の恐れから他の裁判官でも同様に令状を発付だろうことなどを挙げ、裁判官が責任を問われるような著しい裁量権の逸脱はなかった、というものである。

 

 同月24日付けの朝日新聞社説は、「裁判官にも責任がある」という見出しで、珍しく次のように厳しく直言している。

 

 「しかし、違法と認定された捜査を認めたのは裁判官だ。男性の弁護人は判決後、『裁判所が身内をかばったとのそしりを免れない』と語った。独居房捜索という異例の手法を慎重に判断したのか、裁判所も自省する必要がある」

 「逮捕や勾留、捜索などの強制処分に踏み切る際、そのつど裁判所の令状を必要としているのは、行き過ぎた捜査による人権侵害を防ぐためだ。裁判官には『人権の砦』として、自らの役割を果たしてもらいたい」

 

 朝日社説の言う通り、ここで裁判所の厳しいチェックが機能しないのであれば、何のための令状だか分からない。その意味では、ここは裁判所が本来、厳しい自覚的な判断を示してもいいように思える。むしろ、そうでない今回の現実から逆算してしまえば、弁護人のコメントが示唆するように、別のことを優先させたのが、現在の裁判所の姿勢という見方にもなってしまいかねない。

 

 裁判官の責任というテーマは、それこそ冤罪・誤判事件が起こるたびにスポットを浴び、かつ、一般市民のなかにはそのつど焦げ付いたままになってきたもの、といえる。判断の蓋然性や裁判官の地位についての説明。責任を問うことになれば、委縮が生まれ、適正な科刑に影響する。要は、責任が問われことを恐れて処断ができないといった話など。ただ、これらは法曹関係者が思うほど、社会に説得力を持ってきたわけではない。

 

 いかに重大な事案が発生しても、最終的に裁判官の責任が現実的に問われないという地位は、独立することの意義よりも、その地位の上により責任を弛緩させていないかという方に、国民の目を向けさせる。それは、責任を自ら厳しく問うことで地位を守るという姿勢を示すという発想が全くみられないからにほかならない。

 

 法律と良心のみに従い、自由な心証により判断が保持されるために与えられている裁判官の無答責の地位。それは、自己問責と反省によって支えられるということだが、それを本当の意味で国民に納得させるためには、当然、それに見合う自覚が示されなければならないはずである。今回のような判断こそ、そういう自覚が示されなければならない場面だったように思えてならない。

 

 そうではない裁判所の姿勢を前提にするとき、朝日社説がいう自省や「人権の砦」への自覚との現実的な距離を感じてしまう。そして、そのことは「改革」を掲げながら、その自覚が最も問われなければならない誤判・冤罪というテーマが一顧だにされなかった事実ともつながり、この国の等身大の司法を浮かび上がらせているのである。



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