司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 12月12日に大阪高裁で被告人に対する逆転無罪判決が出された、いわゆる舞鶴女子高生殺害事件。殺害に直接結び付く証拠がないまま、状況証拠の積み重ねで立証できるとの判断から、京都・舞鶴署が2009年4月、事件発生から11カ月で急転直下、容疑者逮捕に踏み切った直後から、この事件についてはある見方が提示されていた。裁判員制度対象化の回避である。

 京都府警や京都地検とも協議の上、実施されたとされる、裁判員裁判スタート直前のこの時期の逮捕劇に、当時、マスコミや一部識者のなかにも、この対象化を避けたい思惑に言及するものはあった。もちろん、捜査当局が、公式にこれを認めたわけでないが、逮捕直後の一部大新聞には、確かに当局内に「裁判員ではなく、職業裁判官に判断してもらいたい」との声があったことを報じたものもあった(読売新聞2009年4月8日付け朝刊)。

 だが、どの新聞もこれ以上、この「思惑」に対して言及しなかった。裁判員裁判直前の時期だけに、影響を考慮したともとれた。最近になって、この「思惑」に「状況証拠で裁判員に裁かせる心理的負担の回避」といった見方をするものも出てきているが、この「思惑」は果たしてそうくくれるものなのだろうか。

 この「思惑」とは少なくともこの手の事件について、捜査当局の本音の部分で、裁判員の判断では、自分たちの主張する「正義」が貫けないと考えていたことを示していたのではないか。捜査当局が、もし、状況証拠の積み重ねによる立証という手法に揺るがぬ自信と、今後もそれを続ける正当性を自覚しているにもかかわらず、裁判員裁判は回避したいというのであれば、この時点で、裁判員制度のマイナス面を強く認識していたことになる――そうとれば、彼らが本心から制度に賛成し、推進しようとしているのかを疑う材料になるはずだということを、私は当時書いた。

 いま、この「思惑」が、そもそも捜査当局にとってのヨミとして成り立ったのかは判断しにくい。裁判員裁判で裁かれた場合、果たしてこの裁判の一審判決がどのようなものになったのか分からない。この裁判の一審有罪を勝ち得た時点では、あるいはこのヨミが正しかったと見た関係者もいたかもしれないが、果たして裁判員の心証が無罪に傾いたかは分からない。むしろ、逆に裁判員裁判で有罪になっていれば、高裁での逆転無罪のハードルが上がっていたとみるならば、評価は変わってくるかもしれない。もっとも、2010年の最高裁の状況証拠による判断基準の提示が今回の高裁判決に影響しているということからすれば、検察としては、ヨミ切れないものもあったとみることもできる。

 しかし、今、彼らの裁判員制度に対する本音よりも、もっと基本的な、別のことを問題視しなければならなくなっているように思える。つまりは、これは無理筋に対する自覚の問題である。脆弱な証拠で、無理に逮捕し、無理に起訴する。あるいは、そうとられてしまうことへの自覚といってもいい。

 高裁判決は、捜査機関による供述の誘導の可能性も指摘している。こうとられる強い自覚があれば、自らの正当性を有利にするための可視化の発想も強まるはずだ。逆に、その発想にいかないとすれば、彼らの無理筋に対する自覚は問われ続けることになる。市民に裁かれることの有利不利以前に、彼らは、ハードルの高さを、もっと自覚しなければならないのではないか。

 前記裁判員裁判「回避」の思惑のなかに、自分たちの主張する「正義」が貫けなくなる恐れを読み込んだが、本当に問われなければならないのは、やはり彼らの「正義」そのものへの自覚のように思えくる。



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