裁判員制度の特徴として、市民である裁判員が、プロである職業裁判官とともに裁判にかかわるということが特徴としていわれてきた。だが、ここは制度のあり方を考えるうえで、非常に重要なポイントであるといわざるを得ない。
この点は、市民が直接参加する制度にあって、推進する立場からは、社会にある「素人に裁けるのか」という不安を解消させようとする方向の材料となった。要は裁判も法律も分からない、全くの素人でも、プロが付き添うから、大丈夫、ご安心くださいということである。
ただ、その一方で当然、別の方向の見方はできる。「誘導」を含めた、市民参加の無意味化の方向だ。素人に対して、プロが参加してしまえば、結局、その裁判は現実的には裁判官がリードすることになるのではないか、むしろそうなっても仕方がないという見方である。
裁判員法では、評議での裁判官の役割として、必要な法令の説明を行い、評議を裁判員に分かりやすいものとなるよう整理し、裁判員の発言機会を十分儲けるなど、裁判員が職責を十分果たすことへ配慮することを規定している(同法66条5項)。要は、裁判員を立てて、彼らの判断を引き出すお膳立てをするようにとれる表現にはなっている。
ただ、多くの実務家は、これが裁判官主導を意味することを実は分かっているのだ。別の言い方をすれば「誘導」をどこまでいっても排除できない、つまりは前者の不安解消の要素より、後者の危惧を払拭できない方に着眼するのである。裁判官は裁判員に示す材料や方向性が、どういう心証を形成するのかは当然分かっている。
裁判に対する理解が不足していても、証拠に基づかずに「感覚」で裁いてもいい、という理解でやってきた市民も含まれる(もっともその責任も制度推進者側にあるのだが)裁判員を相手に、判決にたどりつくためには、一定の方向に裁判官が導く必要があるという理解をしている裁判官もいるだろうし、この点は社会もあるいは飲み込んでしまうかもしれない。
しかし、それは裁判官の意図や匙加減で、裁判の方向性が決する、制度が掲げるところの市民参加の趣旨を無意味化する要素をはらむ、制度そのものの矛盾、無理を示しているのである。「あなたが主役」とばかり、市民を強制動員しながら、裁判官主導が明確なのが、その「協働」関係の実態なのである。そして、裁判員に一生課された「守秘義務」が、その制度にとって非常に不都合な現実を覆い隠してくれるだろうというヨミが、あるいはこの制度を推進する側にあったのではないか、ということも疑いたくなるのである。
しかし、現実は覆い隠し切れない。そう思わせる内容を、今月、京都新聞が報じた。タイトルは、「『理解追いつかず』 青酸事件で裁判員会見、専門家求める声」(11月7日、同新聞配信)
京都地裁の裁判員裁判で初の死刑判決となった裁判に臨んだ裁判員3人が会見。その一人は青酸を用いた犯行手口から、証人尋問などで化学の専門用語が飛び交い、「理解が追いつかず質問も浮かばなかった。素人にも分かりやすい言葉で説明してほしかった」と言及。被告人の認知症については「認知症の専門家が公判を傍聴し、意見を聞く機会があれば判断は変わっていた可能性もある」などの声も上がった。さらに裁判員の負担軽減のため法廷に提出される証拠が絞られた結果に「審理時間が掛かっても出せる証拠は全て出してもらい、判断したかった」との声も――。
「控訴審ではプロの判断を仰ぎたい」
記事は弁護側控訴についての、こんな裁判員の声で締め括っている。この記事が映し出している現実からは、裁判官の「誘導」そのものの問題性が浮き彫りになったわけではない、という見方はできるかもしれない。しかし、逆に言えば、裁判官が付き添っても、彼らは適正な判断にたどりついている自信をもっていない。むしろ制度側が「配慮」のように繰り出している負担軽減の証拠の絞りで彼らは、一層、その自信を持てていないように見える。
プロであってもこうした案件は難しい、という一般化する見方もあるかもしれない。しかし、裁判員の本音は、彼らの言でも分かるように、プロであれば、自分たちのようにではなくできる、というところにある。その点は、裁判員裁判への期待ではなく、職業裁判官による裁判への、市民の率直な期待であると本来受けとめなければならない。ただ、一方で、これは裁判員制度への「的確な誘導」への期待と紙一重である危さでもある。
正直、ここで語られていることが裁判員の本音であり、裁判員裁判の現実であるのならば、それこそ裁判員裁判を一旦停止して、検証しなければならないといってもいい内容ではないだろうか。「理解が追いつかない」「判断が変わっていた可能性がある」と公言する人間が裁く裁判を続けていいわけもないからである。市民が裁判官と対等の立場で「裁く」という建て前の制度であるならば、このセリフを裁判官が吐いている裁判の現実を想像しても当然、というよりもむしろ想像すべきではないだろうか。
この裁判員の声からは、裁判官が寄り添う制度のメリットの無意味性や、制度側の負担軽減策の逆効果が示されている。と同時に、裁判員裁判で、機能してしまった裁判官の「誘導」のデメリットは、こんな感想となって現れることはないだろうことも想像できてしまう。実務家が懸念している「誘導」の効果が、裁判員の判断と結果にどう作用しているのかは、やはり見えにくい制度の現実がある。
やはり存続を目的化せず、その無理を直視するところから入らなければ、この制度の真の問題性にはたどりつけない。