司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 
 ファシズムに道を開く理論

 結構多くの人の支持を集めているのが、討議民主主義という理論に依拠することです。

 緑大輔・広島修道大学准教授が、国民参加の義務化を何とか合憲化しようと試みた理論です。前掲の土井真一氏も、その表現は用いていませんが、基本的には同じ発想かと思われます。アメリカの憲法学者 Cass(キャス).R(アール).Sunstein(サンステイン) の討議民主主義の理論を拝借しようとしたものです。民主主義の正当性は、熟慮に基づく討議と市民の参加が担保されたところでの決定である点に求められるというのがその討議民主主義の理論です。

 この見方では、他者への配慮を伴う理性的な討議による民主主義を実現・維持するために、「市民としての地位 citizenship」を保障するものとして憲法を理解するものです。この理解によれば、公共の問題に関する討議への参加を平等に保障するような機関に市民が参加を義務付けられることは、市民にとって憲法の自由権を必ずしも侵害するものでないという説明が可能になると論じています。

 しかし、前にも述べましたが、司法と民主主義との間にはディレンマと称されるような緊張関係があるものですから、サンステインの討議民主主義をそのまま司法の場に持ってくること自体に問題がありますし、公共の討議の場だから国民を強制参加させ得るということになりますと、選挙の強制の問題や個人の私的利益の侵害という問題が必ず起きましょう。

 憲法の基本的人権条項は、憲法は公益に仮借して侵されがちな個人の権利を守るという立場で規定されているものであり、このような理論が是認されるならば、この憲法の人権保障の立場は覆滅することになりかねません。「政府が公共性、徳性を振りかざして個人の内面の改造を意図する試みであり、公共的価値や国民の義務を強調する改憲の理念に相似形をなしている」との今関源成早稲田大学教授の危惧がそのまま当てはまります(2005.5 法律時報・臨時増刊)。

 柄谷行人氏が「『戦前』の思考」の中で、ファシズムがあるとすればそれは「民主主義」として出て来る、そのとき抵抗し得るのは社会民主主義者ではなくて頑固な自由主義者だけであろう、と述べています。私は、この討議民主主義理論による裁判員強制の合憲化は、理論的にも無理があるだけではなく、国民を民主主義の名を借りて国策に強制的に狩り出す、ファシズムに道を開く理論として危険なものを感じます。

 国家権力による内心の強制

 千葉大学の法哲学の教授である嶋津格氏は、西野喜一新潟大学大学院教授の「裁判員制度の正体」を批判する論説(当人は「メモ」と表現)の中で、「国民に納税以上の覚悟を要求するという側面を裁判員制度が持っていることは否定できない。そして国民の意識がこれを受け入れるならば国家と国民との関係について望ましい変化であると考えている」と論じています。

 そのようなことが望ましいと受け止める感覚は、私とは余りにかけ離れています。これについては西野教授が「普通の裁判員制度賛成論者でも簡単には同調しかねるのではなかろうか。」と批判していますが、しかし西野教授がさらに言われるように、「裁判員制度は我が国に何をもたらすか、それを象徴しているのがこの嶋津メモである」ということについては、私も全く同感です。

 なお、これらの裁判員強制合憲の意見は、主としてそれが憲法18条の苦役に当たるか否かという点で論じられていると思いますが、私は、職業選択の自由、思想、良心、信教の自由の面からも論じられるべきだと思います。

 まず、裁判員という身分ですが、これは最高裁判所の広報パンフレットにも明記されていますが、非常勤の裁判所の特別職公務員です。ですから、通勤災害、公務災害についての補償が受けられます。収賄罪の適用対象にもなります。

 公務員というのは権力者のように思われますが、憲法15条2項は、奉仕者、それも全体の奉仕者 servants of the whole community と規定しています。この裁判員となることを強制するということは、この奉仕者servantになることを強制されるということです。

 このような義務を課すことが好ましいことと思う前述の嶋津教授のような立場でも、憲法上国民は全体の奉仕者、公務員にならなければならないという根拠を見出すことは困難なのではないでしょうか。この公務員と国民との関係は、国民はこの公務員の固有の選任権を有する雇主でありこそすれ、奉仕者にさせられる存在ではないのです。

 また、裁判、特に裁判員制度について論じられる刑事裁判は、大久保太郎氏も強調されるように、人の生命を奪う、自由を拘束する、財産権を侵害するという、日常生活においては犯罪と看做され得る行為です。

 そのようなことを国家権力の立場に立って意思決定をすることについては、一般人としては、そのようなことは自らの思想、信条、信仰上の立場によって、或いは自らの感覚的なものによって、実に恐ろしいことであってできないと思うこともありましょう。

 つまり、国家の行為とはいっても、それは国民の内心に深く関わることであり、そのような内心の自由を侵す可能性のあるものです。その内心を国家権力が強制によって侵害することは、憲法の基本的人権条項(19条、20条)に違反することになりましょう。

 東京高裁(第2刑事部)は、2010年4月22日、裁判員制度は憲法に違反しないとの最初の判断を示しました。その詳細は分かりませんが、西野教授の批判論稿(法律新聞2010.5.28第1853号)によれば、裁判員制度には国民に裁判員を強制する合理性があるということのようです。どこにもそのような合理性は見当たらないと思います。東京高裁第11刑事部も同年6月21日合憲判決を出していますが、その理由は極めて皮相的です。



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