〈違憲法令審査権対象の制度推進に手を貸す誤り〉
司法権とは法律上の争訟を裁判する国家作用を言い、具体的には、紛争の解決、犯罪事実の認定と有罪と認定した場合の科刑がその主たるものである。いずれの職務についても要求されることは、憲法のもとに公正、公平、不羈独立でなければならず、その基本は立法行政という強大な権力に対しても貫かれなければならないということである。憲法76条3項の立法趣旨は正しくその点にある。
また、裁判所に違憲法令審査権が付与されているのも、司法が立法府、行政府の行為についてそこに違憲性があるかどうかを、立法府、行政府の狙いの如何に拘わらず、冷静に、憲法を解釈適用していくことが求められ、間違っても、その立場を歪めて立法府、行政府と一体となり、或いは一体を疑われるような行為、判断をしてはならないということである。
裁判員制度について、裁判員法は当初最高裁に対しその広報義務を課したが(それについては、私は週刊法律新聞2007年9月14日号(拙著「裁判員制度廃止論」p34)で批判した。)、違憲法令審査権の対象なり得る法制度について、間違ってもその制度の推進に手を貸すなどということはあってはならないことである。
〈司法は本来の姿に立ち返るべき〉
今年6月5日、裁判員法の一部改正法が成立した。その審議の過程で裁判員制度の存在そのものに疑問を投げかける議論はついぞ聞かれなかった。
日本法律家協会の発行する雑誌「法の支配」第177号(2015.4)は裁判員制度の特集を組んだが、それも、制度の存廃の議論を差し置いて、その制度の改善を唱えるものであり、その特集記事の中の座談会の参加者は、いずれも制度が順調に運営されていると述べていた。制度施行6年を迎えて、全国紙の社説も同様に、多少の問題意識は持ちながらも、制度改善を促す内容のものであった。
立法、行政、マスコミ、この3大権力は揃って裁判員制度推進に走る。日弁連も従来の推進の態度を変えない。本来、これらの動きに対しては中立でなければならない司法までもが、推進のスローガンを掲げている。
ところで、最高裁による最新の国民の意識調査では、「裁判員として刑事裁判に参加したいと思うか」という質問について、「義務であっても参加したくない」が男性32.6%、女性47.9%、「あまり参加したくない」男性48.8%、女性44.5%、これら裁判員となることに消極的な者は男性81.4%、女性92.4%である。それが権力者らの「制度は順調に運用されている」と言っていることの真実の姿である。国民が主体的に参加することが本来の姿であるとされる制度について、主体的参加への消極派は年々増え続けているというのに何故に制度は順調に運用されていると言えるのであろうか。その発言には首を傾げざるを得ない。
司法は権力の動きやマスコミの動向に惑わされてはならない。司法はその原点に立ち返り、国民、被疑者、被告人の基本的人権の擁護のために、その全ての精力を注ぎ、正しい憲法判断を示すべきである。
「国民と司法のかけはし 裁判員制度」の看板は一刻も早く撤去さるべきであろう。いまさら言うまでもないが、国民と司法のかけはしは、司法が、その本来あるべき公正、公平、独立を貫き国民の基本的人権の砦となることによって得られる国民からの強い信頼以外にはない。