司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

〈批判意見を無視した日弁連〉

 日弁連刑事法制委員会は、2010年12月3日、「裁判員制度見直しの要綱試案のために」と題する意見書をまとめ、その中で、被告人による選択権を取り上げている。

 「裁判員裁判と裁判官裁判の2つの方式の裁判が併存して存在する以上、いずれか一方、自らが望む形式を選択しうることは、それこそ、『公平な裁判を受ける権利』を十全に保障することになる。まさに刑事裁判の手続は被告人のためのものであることからすれば、被告人には裁判員制度の裁判を受けるのか受けないのか、その選択権(拒否権)が保障されるべきである。また、市民感覚が反映されることが期待されるが、時としてその市民感覚が被告人へ向けられて不利に働く危険性がある。そのような市民感覚の『暴走』の歯止めのためにも被告人による選択権が必要といえよう」と記述する。

 ところが日弁連は、2012年3月15日、裁判員法施行3年後の検証を踏まえた裁判員裁判に関する改革提案として「裁判員の参加する公判手続等に関する意見書」等3本の意見書を発表し、これらを同月22日法務大臣に提出した。これらの意見書中には上述の刑事法制委員会が提起した被告人の選択権の問題は全く取り上げられていない。

 日弁連が見直し意見作成の過程で、この刑事法制委員会の選択権に関する意見についてどのように議論したのかは不明であるが、結果として日弁連は、裁判員制度に関してはその根幹に触れるような批判意見には耳を貸さない姿勢を示したと受け止められるものであり、まことに遺憾なことと言わざるを得ない。

 〈加担であって監視ではない〉

 国家制度としての裁判は、民事にしろ、刑事にしろ、基本的に国家が国民に対し権力機関として強制力を行使する場である。民事裁判においては、その強制力の行使は、私人からの申し立てによる私人間の紛争解決という国家のサービスとして行われるけれども、刑事裁判は、国家が、犯罪の嫌疑をかけられた被告人に対し、公共の福祉の維持、要するに治安の維持を念頭に置き且つ被告人の基本的人権を守りつつ事案の真相にせまることを目的とする国家権力(裁く側)と個たる国民(裁かれる側)とが対峙する典型的な場である。

 国家が国民を強制的に裁判員にするということは、間違いなく国家が国民を裁く側、国家権力側に強制的につかせることである。本来権力は民主主義国家においては常に国民に奉仕すべきものである。国民が司法権という国家権力と如何に向き合うべきかについても、その原理は当て嵌まる。

 一般国民は、司法権との関わりにおいては、本来その司法権という強大な権力の行使を監視し批判する立場に立つべきものでありこそすれ、その権力の側に付いて、その行使に加担する立場に立つべきものではない。裁判員裁判の場が国民の健全な社会常識の反映の場になるとの意見もありそれについては強い疑問を持つが、それはさて置き、そこが監視の場になり得ると考える者はまずあるまい。いわゆる統治客体意識にどっぷりと浸かった国民の参加によるものであれば当然のことである。

 討議民主主義からの説明を試みる意見があるが(酒井安行「裁判員制度と国民の生活上の負担」(高窪貞人教授古稀祈念論文集p54))、とても空論としか解し得ない。

 前述のとおり、近代的陪審の始まりであるアメリカ合衆国の陪審制は、今も国民の間に根強く残ると言われる権力不信の国民性を背景とし、権力機関である裁判官による裁判を拒否し、自分の仲間と信ずる者に事件の白黒の決着を委ねるという仕組みとして始められたものである。

 それが司法の本質に照らし果たして正当なことであるか否かは別として、司法への国民参加制度が仮に認められるとすれば、被告人の、権力機関を排除したいという希望を達成する制度としてのみ正当性を保つことができるのではないだろうか。



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