〈憲法が定めた司法担当者要件〉
憲法は前述のとおり司法を担当する者について第6章にその民主的正統性を担保する者としての任命形式を定め、任命される者の資格と権利を定めた。
憲法32条に定める裁判所の裁判を担当する者は、憲法第6章に定める要件を満たすものであることが必要である。下級裁判所の裁判担当者は、まず国民の代表者としての実質的資格を有し、且つ司法権力を行使するものとしてその良心に従い独立して職権を行い得るもの、憲法と法律にのみ拘束されてその職権を担当し得る者であることが要求されることになる。かかる資格と能力のある裁判担当者を、下級裁判所については最高裁判所の指名した者の名簿によって内閣で任命することにより、その任命に民主的正統性を与えている。これが憲法が司法と司法担当者に関して定めていることである。
なお、その最高裁判所の指名した者の名簿によることは、その任命について行政の恣意を許さないとする司法権の独立への配慮があるほか、名簿作成者の民主的正統性の確保も考慮されていると解される。
宮澤教授も説くように、憲法第6章に定める裁判官を、下位法である裁判所法に定める裁判官に限定して解すべき理由はない。
宮澤教授は、前掲の箇所に続いて、「ここにいう『裁判官』が公務員としてどのような地位を有するかはすべて法律の定めるところである。」と説く(p603)。
それ故、一般の市民が、任期10年(常勤か非常勤かは関係がない)の身分の保障を得て、憲法76条3項の能力を有し義務を果たすことができれば、その市民を裁判担当者として内閣が任命することは可能である。しかし、それ以外の者を下級審裁判担当者とすることは、司法権力者としての民主的正統性を欠く者として認められるべきではない。
憲法32条の裁判所がかかる裁判担当者によって構成されるが故に、国民から信頼され得るものとして、国民はかかる裁判所の裁判を受ける実質的利益を得るのである。
因みに、宮澤教授は、「裁判官が結論を下すという建前を崩すことにならない限り、陪審員が訴訟手続に参与することは、必ずしも憲法の禁止するところではないと解すべきである。」と説く(前掲宮澤p598)。そこに述べられている陪審員は、司法への関与者ではあっても、アメリカの小陪審員のような司法権力の行使者ではなく、憲法80条の要件を含め憲法第6章に定める裁判官と言えるものではないから、そこに定められている資格、能力が要求されることはなく、その点からすれば宮澤教授の説に異論を差し挟むことはできない。
しかし、制度設計として、停止中の旧陪審法に定めるように、国民に義務を課す制度として設計されることは必定であり、その理由により、やはり陪審制度は認められないということにならざるを得ないと思われる。なお、宮澤教授がここで説いている陪審制度は、陪審制推進論者の説く事実認定権のあるものではないから、かかる事実認定権のあるアメリカ型の陪審制については宮澤教授も憲法違反と考えていたと思われる。
なお、この宮澤教授の論法からすれば、裁判官のみの判断と異なる判断をなし得る制度設計の現裁判員制度は、やはり憲法上容認され得ないことになろう。
〈被告人の裁判員裁判拒否可能も当然〉
裁判員の職務が、下級裁判所における刑事裁判において、事実認定、法令の適用、量刑の判断に関与するものであることからすれば、裁判員は正に司法権力の行使者であることは疑いない。しかし、その選任はくじでなされ、任期も1事件限り、任命権者は内閣ではない、拘束されるべき憲法、法律については全くの素人であり、国民の代表としての資格も能力も持ち合わせることの期待できない者である。
そうであれば、裁判員法に定める裁判員は、憲法が裁判所における裁判担当者として許容する範囲内の者には到底入らない。なお、国家権力の行使について、いわゆる代表民主制を普遍の原理とする憲法の下で、司法についてのみ一見直接民主制的に一般市民の参加を定めることは異常なことであり、その採用のためには憲法上明文の規定がなければなるまい。
かかる内容の制度は、制度設計の詳細な検討を待つまでもなく、どこから見ても憲法の受け容れるものでないことは明らかである。
司法制度改革審議会(30回)における最高裁の「評決権を持たない参審員なら許容され得る」旨の意見は、そのような制度の採用の相当性はともかく、筋としては大法廷判決よりははるかに優っていたと言えるであろう。つまり、その意見は司法権行使者としての民主的正統性に疑問を呈したものとも解し得るからである。
かかる見解からすれば、裁判員対象事件の被告人は、憲法32条により、裁判員裁判を受けることを拒否することができるのは当然のことである。前記大法廷判決にかかる事件の小清水弁護人が、憲法80条第1項本文前段の「正規裁判官」の任命制度と裁判員法の「裁判員」の選任制度との齟齬矛盾の問題だけを上告趣意として取り上げ、原判決破棄の成果に自信を持ったのは、その理由付けは別として、当然のことであったと思われる。