〈裁判員の民主的正統性〉
しかし、それでも前述のように、国民の感覚が裁判の内容に反映される、国民の視点や感覚と法曹の専門性との交流によって相互の理解が深まるなどと法務省や最高裁は言う。ここでいう国民とはいかなるものと考えられているのであろうか。
国家権力の行使、国家意思の決定は、究極的には国民から授権されたものによってなされるのが民主主義社会の権力のあり方である(拙稿「司法ウォッチ」2014年8月~10月)。いわゆる、民主的正統性を有すべきであるということである(後述司法審第32回竹下会長代理発言参照)。ここにいう国民は、個々の市民ではなく、その市民全員によって構成されるシンボル的存在である。各人が、法律を作り、これを執行し、法律解釈をするのではない。
古い話になるが、現憲法施行直後、文部省は浅井清氏(初代人事院総裁となった憲法学者)らの助力を得て『あたらしい憲法のはなし』という本を作成した。それは民主主義を知らなかった国民に、民主主義の何たるか、新憲法の何たるかを分かり易く教えようとした、現在においてもその価値の薄れることのない名著であると私は思う。
その中に、「主権は日本国民ぜんたいにあるのです。ひとりひとりがべつべつにもっているものではありません。ひとりひとりが、みなじぶんがいちばんえらいと思って、勝手なことをしてもよいということでは、けっしてありません」と記されている。ここで指摘されていることは、憲法前文で述べられている国家権力の行使と国民主権原理との基本的あり方であり、国民が国家権力と関わる場面では、国民の総意に基づいて権力は行使されなければならないこと、そして各人は権利の享受者として主権者の地位にあるということである。
〈「論理の飛躍」とされた「国民主権」説〉
裁判員制度で、偶々くじで選ばれた市民が、裁判において意見を述べたり、感想を語ったり、評決に参加することは、「民主主義社会における国民主権の実質化である」(日弁連)とか「刑事裁判に国民が参加して民主的基盤の強化を図る」(最高裁)などと民主主義に結び付けて考えることは本来誤りであり、国民を惑わすものだということである。
司法審第32回審議会(2000年9月26日)の冒頭で竹下会長代理は、国民の司法参加の制度の意義について、「国民主権ということから、直ちに立法、行政と同じように、当然に司法権の行使にも国民が参加すべきであると説くとするならそこには論理の飛躍がある」と述べ、司法の民主的正統性は裁判官の民主的任命制度に求めるべきであると主張している。
中間報告の段階では、この国民の司法参加の意義としては国民主権ないし民主主義を据えるという理解が審議会全体の意見としては認められず、その後それは司法制度改革推進本部においても維持されている。裁判員法1条の「理解増進」・「信頼向上」という用語は、国民の司法参加の民主主義的基礎づけ説の否定の意図のもとに表現として採用されたものであると説かれている(柳瀬昇「裁判員法の立法過程」信州大学法学論集8~11号、特に8号p38、9号p230、11号p144)。