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 〈国民教育のためとされている制度〉

 2021年2月22日、大阪地裁は、国が2013年から2015年にかけて実施した生活保護基準額の引き下げについて、厚生労働大臣の判断過程に裁量権の逸脱があり違法だとして、受給者に対する自治体の減額決定を取り消す判決をした。原告側代理人の小久保哲郎弁護士はこの判決について、「長い闘いだったが裁判所は生きていたと思えた」と笑顔を見せたと報じられた(朝日新聞2021年2月23日)。

 冗談混じりの感想であるが、その感想が出るまでには、同弁護士が抱く裁判所のイメージとして、これまで行政追随の傾向が見られ、国民の立場への配慮に欠けるものがあり、提訴から6年余り全力で主張、立証はしてきたけれども自分らの主張を理解してくれないのではないかという裁判所に対する不安感も潜んでいたのかも知れない。

 裁判所が「生きていた」、それは単に自分の主張を受け入れてくれた、分かってくれたというだけではなく、司法権の独立の真の意義を弁えてくれていた、司法機関としての役割を果たしてくれたという安堵感があったのではないかと察する。

 ところで、この言葉を聞いてふと思った。裁判員制度は生きているだろうかと、形ばかりで魂が入っていないのではないかと。「佛造って魂入れず」という諺がある。物事をほとんど成し遂げながら、最も肝要な一事が抜け落ちていることの例えである。その肝心な魂が入っていないのではないか。

 裁判員法1条をどう贔屓目に読んでも、裁判員が刑事訴訟に関われば自ずと裁判が元気になったり、死に体の裁判所が生き返ったりすることを期待しているとは読めない。国民が裁判に参加すれば、自ずと司法に対する国民の理解が増進され、信頼も向上することに決まっているから、裁判員に刑事訴訟に参加してもらいますということだけでしかない。

 要するに、参加した裁判員が、裁判のことを分かってくれた、日本の裁判官は信頼できる、これからは安心して私も裁判を受けられるということになれば、それでこの制度は生きているということになるという仕組みなのである。つまり、刑事裁判の本来の目的である被告人に関する起訴事実の認定、法律の適用や量刑によって、「裁判員裁判は生きていた」などという実感を被告人やその弁護人に感じさせ得る性質の制度ではないということである。

 くどいようだが、裁判員法1条は、その法律が刑事訴訟法の特則だと定めてはいるが、肝心の刑事訴訟の目的である被告人の基本的人権の保障、刑罰法令の適正且つ迅速適用に資するものではなく、裁判員経験を通し国民教育を図るものとされている(拙著「裁判員制度廃止論」20頁)。そのため、被告人、弁護人等訴訟関係者が、裁判員制度は生きていたなどという実感の湧く余地はあり得ない。つまり、裁判関係者にとっては、裁判の生死に関わるものではないということである。


 〈初めから魂が無かったか痩せ細っていた〉

 裁判員裁判が始まって間もなく12年、辞退者・不出頭者が増加しても現実には国家として打つ手がなく、元々形骸化していたこの制度には益々魂が入っていないことが鮮明になった。法務省は、2019年1月に裁判員制度の施行状況等に関する検討会を設置し、検討項目を、2015年改正法により設けられた制度の在り方、対象事件の範囲の在り方、上訴審の在り方等8項目に整理して、16回に亘って検討を行ってきたが、裁判員の辞退率、出席率の低下については、それが制度存立の根幹に関わるものとの認識はなく、認識があっても、それは素通りしてただ現行制度の微調整的発言しかしていない。

 私は制度存在そのものに反対するものであるが、刑事裁判の目的は前記のとおり被告人の基本的人権の保障、事案の真相の明確化、適正な法令の適用であれば、仮にこの制度の存在を認めるとしても、前記8項目の課題ではなく、最低限刑事裁判の直接の当事者である被告人が裁判員裁判を受けることを望むか否かを確認し、その裁判を受けることを望んだ被告人についてだけ裁判員裁判を行うことにするかという、いわゆる選択権の問題こそ検討すべきであろう。

 それによって裁判員裁判が行われれば、その裁判を期待して選択した被告人は、裁判員裁判が生きているか死んでいるかを認識できるようになる。それによって、裁判員裁判はやはり役に立たないと否定的に評されれば、その段階で制度は本当に絶命することになるだろうし、制度廃止にきっかけを見つけられないでいた者も廃止への決断がし易くなるであろう。陪審制度がそうであったように、被告人に選択権を認めることは、制度の生死を判定する上で絶対に欠かせないものなのである。

 裁判員制度の検討というときには、その制度の存在意義の根幹を問うことが必要である。まず、魂が何かが分からなくては、検討したところで意味はない。

 「裁判員制度の理念は捉えどころがない。裁判は公正であるという現状認識からすれば当然だが、公正の実現は独自の意義を持つ改革理念として謳われない。『国家主権』と直結させる当初の強い民主化理念は、司法審の段階ですでに放棄され、司法審から制度の具体的設計を委ねられた司法制度改革推進本部の裁判員制度、刑事検討会の『専門家』たちは、公正の実現でも『司法の民主化』でもなく、司法の『「国民的基盤」の強化』という非常に痩せ細った理念を所与として国民参加を裁判員制度として具体化した」と故今関源成教授によって評されているように(「刑事裁判への『国民参加』とは何か?」「政治変動と憲法理念」敬文堂120頁)裁判員制度は、初めからその制度の理念、つまり魂が無かったか痩せ細っていたのであり、そのようなもののために国民を強制的に動員する制度は絶対に許されない。




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