経済産業省現役の高級行政公務員、古賀茂明氏が(私は高級官僚という言葉が嫌いなので、いわゆる官僚については、以下高級行政公務員又は行政官と呼ばせていただく)東日本大震災後の5月23日に講談社から「日本中枢の崩壊」という本を出版された。
古賀茂明氏については、仙石大臣との国会でのやりとりがTV報道されたこともあるし、それから以後、たびたびニュースショーにも出演されているからご存知の方も多いだろう。
「『日本中枢』で国を支えているはずの官僚は、実はかくも信頼できないものでありながら、しかし自己保身と利権維持のための強固な連携力だけは備えている」(前掲書「まえがき」)と古賀氏は言う。問題は、国民にとって、一体何時から「『日本中枢』で国を支えているはずの官僚は、実はかくも信頼できないもの」になってしまったのだろうかということである。
逆に見て、官僚等という中国科挙制度時代の言葉を自ら称して恥じるところを知らない日本国高級行政公務員は始めから「『日本中枢』で国を支えて」などいなかったのではないか。とすれば、それは何時の時からなのか。
古賀茂明氏は1955年に、東京都に生まれ1980年に東京大学を卒業されている。氏の生まれた、1955年には、私は、中野区立桃園小学校の5年生であった。その年の夏、高松国税局調査査察部長だった父が脳梗塞で死に、その年の秋から、母は池袋堀の内で、雑貨、文具、薬の店を始めた。そのため、私は池袋第一小学校に転校した。
古賀さんが高校受験をする時には、学校群制度が始まっていただろうが、私の時代は、日比谷、西、戸山、小石川、新宿の、年間東大合格者300名から80名までの5高校が、東大入学者数を競っていた時代で、学校群制度が導入されたのは、この受験競争の弊害が理由であったと言われている。
当時は、中学卒で社会に出る人たちも少なくなかったし、魚屋や乾物屋や米屋など家業を継ぐものも少なくなかった。一流高校受験などで騒ぐのは、一部高級公務員や大企業の親子位で、そもそも当時、高校受験予備校産業などは存在していなかったのである。
確かに少し変わっている高級公務員の暮らしと価値感情、法と規制という権限で飯食う「身分」の人々の、鼻持ちならない選良意識は、そこに生まれ育った私にも理解できる。それどころか、子供の時に受けた精神的トラウマから、私は未だに抜けられずにいる。
戦後の復興を支えたのは、私の父達、戦地から帰国して来た30歳代の文官達(当時「官僚」とは天皇陛下の高等文官たちを指して言ったのであり、戦後、民主憲法下では「官僚」などという言葉はタブーに近かった)であった。第二次大戦で、軍国主義の狂気を体験した天皇の文官達は、アメリカ占領軍からの追放を免れて、かわりに平和な民主主義日本を創ろうと「『日本中枢』で国を支え」ることを決意し、日本の経済復興に総てを捧げたのである。
その、戦後、再出発した新生日本の公務員制度が、行政官が、「かくも信頼できないものでありながら、しかし自己保身と利権維持のための強固な連携力だけは備えている」存在に、一体、何時の頃からなり始めたのか、古賀さんも私も、戦後復興の担い手であった行政官達の子供の世代にあたり、かく言う我々も又、間もなく引退することになるのだが、「かくも信頼できないものでありながら、しかし自己保身と利権維持のための強固な連携力だけは備えている」存在というのは、実は、菅総理大臣以下、ベビーブーマー前後世代の我々のことなのではなかろうか。