司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 
 〈裁判員選任の正当性考察〉

 

 私が裁判員制度について最初に疑問に思ったことは、一般国民を強制的に国家権力の行使に加担させることは憲法18条に違反するのではないかということであった。その違憲性についてはいくら強調してもし切れるものではなく、最高裁が、裁判員となることは「参政権と同様の権限を国民に付与するもの」などの詭弁を弄してこれを合憲と判断していても、それをそのまま容認することは許されないと思っている。

 

 裁判員制度にはそのほかにも、違憲のデパートと言われるほどの数多くの憲法問題、例えば国民の思想、良心、信教の自由や国民の職業選択の自由等の侵害、裁判官の独立の侵害、被告人の制度選択権否認による裁判を受ける権利の侵害等々、見過すことのできない問題があることは、これまで諸賢によって指摘されている。

 

 ところで、私は、昨年(2015年)12月、「いわゆる裁判員制度大法廷判決の判例価値」と題する小論を司法ウオッチに掲載させていただいた。大法廷判決とは、前述の詭弁を弄した2011年11月16日最高裁大法廷の裁判員制度に関する判決である(以下「大法廷判決」という)。その小論の中では、「裁判員をくじで選任することの違憲性」について、その事件の小清水弁護人の鋭い上告趣意に関連して憲法80条1項の問題として論じた(拙著「裁判員制度はなぜ続く」p126、以下「拙著」というときにはこれを指す)。

 

 裁判員の職務は、裁判員法6条1項によれば、対象事件についての事実の認定、法令の適用、刑の量定を裁判官と合議して決めることである。それは紛れもなく裁判官の仕事である(拙著p123)。最高裁判所も、「裁判員は非常勤の裁判所職員であり」とそのホームページに掲載している。非常勤の裁判所職員とは、国家公務員法2条3項13号の「裁判官及びその他の裁判所職員」に含まれる特別職の公務員であることは間違いない。今回は、憲法15条を中心に、その裁判員選任の正当性について考察してみたい。上述の裁判員強制問題等と並ぶ、というより、裁判員の民主的正統性に関わる、決定的に重大な問題と考えるからである。

 

 

 〈国民の司法参加にかかる最高裁の合憲判断の論理〉

 

 大法廷判決は、刑事裁判に「国民の司法参加(同判決は「裁判官以外の国民が裁判体の構成員となり評決権をもって裁判を行うこと」と定義している。要するに、裁判官でない一般国民が裁判官の仕事をするということである。)が許容されているか否かという刑事司法の基本に関わる問題は、憲法が採用する統治の基本原理や刑事裁判の諸原則、憲法制定当時の歴史的状況を含めた憲法制定の経緯及び憲法関連規定の文理を総合的に検討して判断さるべき事柄である」との判断手法、笹田栄司教授のいわゆる複合的解釈手法(拙著p127)をとって判断されるべきだと判示する。

 

 最高裁がその手法によって導いた解釈は、第1に「憲法は刑事裁判の基本的な担い手として裁判官を想定している」、第2に「憲法は『裁判官による裁判』から『裁判所における裁判』と表現を改めたこと、憲法第6章では下級裁判所については裁判官のみで構成されると明示していないこと、刑事裁判に国民が参加して民主的基盤の強化を図ることは基本的に了解し得ること」とし、国民の司法参加は禁じられてはいない、あとは、適正な刑事裁判が実現する仕組みになっているか否かであると纏めている。この点については、西野喜一新潟大学名誉教授が既に法政理論第44巻2、3号において最高裁の省察の足りなさを鋭く指摘しているので、是非これを参照されたい。

 

 ところで、小清水弁護人の上告趣意は刑事裁判に国民参加が認められるか否かではなかったのであるから(拙著p118以下)、国民参加の是非について、本来は最高裁としてはこのような論陣を張る必要性はなく、張ることは許されるべきではなかったけれども、その点については既に前掲小論で論じているので、ここではそれをひとまず置いて、この最高裁の判示について検討する。



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