〈全面的に廃止したスイス〉
スイスは民主国の典型でレファレンダム(国民投票制度)の進んだ国といわれる。裁判についても一般市民が第1審の刑事裁判の裁判員に選ばれて裁判をする制度が長い間行われてきた。しかし、2011年11月1日をもって裁判員制度全てが廃止された。連邦裁判法によって全国の裁判制度が統一されたためといわれる。その裁判員制度は1990年ごろから各地で廃止されて来ていて、この全国統一の影響を受けたのはチューリッヒ州とフランス語圏のいくつかの州だけになっていたという(swissinfo.ch 2018.6.6)。
審議会の中間報告によれば、司法制度調査の対象とされていた外国は米、英、仏、独の4か国(一部カナダ)であるが、スイスの1990年ごろからの裁判員制度に関する情報は把握していなかったのであろうか。情報収集能力の高い我が国官僚が、国民の裁判参加が行われている国ということで、その動きを把握していなかったとは考えられない。仮に把握していなかったとすれば、司法改革の動きの中では怠慢の謗りを免れないであろう。また、把握していたとすれば、その情報は国民参加の採用にはマイナスということで敢えて取り上げなかったのであろうか。もしそうとすれば、国家による隠ぺい、国民に対する欺罔となろう。
憲法に陪審の規定のあるアメリカは別として、同じ陪審制国のイギリスでは対象事件を減少させるなど、一般国民の裁判参加は減少傾向にあるといわれる(拙著「裁判員制度廃止論」77~78頁)。
「司法までも民主化しないところに合理的な民主主義の運用があろう。ここに民主司法の当面しなければならないジレンマがあるのである(兼子一『裁判法[第1版]』)」、「一般にはむしろ司法は政治部門の組織原理である民主主義によって支配さるべきではない(今関源成『参加型司法』)」。
これまで何度も引用しているこのような論説に対しまともに反論した論説を、恥ずかしながら目にしたことはない。この司法の本質に触れることなく、施行10年において裁判員制度について上述の意見を公表する最高裁判所の感覚が知れない。
前記の最高裁大法廷判決というお墨付きのある制度であれば、事務局側としては、その「おわりに」のような、何とも歯切れの悪いことしかいえない気持ちもわからないではない。しかし、本質的問題に触れることができないのであれば、その「おわりに」のような感想めいたようなことは書かない方が良かったのではないか。
〈国民動員で問われるもの〉
裁判員法16条には裁判員辞退事由が列記されている。しかし、多くの市民はこの事由に当てはまることはない。基本的に国民皆兵と同じである。
かかる国民動員をかけるについては、立法に携わる者が真っ先に考えなければならないことは、そのような動員をかけることが許されるほどの差し迫った重大な国家的必要性があるか、動員をかけた場合の国民の心身への負担はいかなるものかということでなければなるまい。それが憲法13条の要請するところである。その憲法13条は、憲法の中でも最も肝心な規定だといわれる(樋口陽一「個人と国家」集英社新書、204頁)。国家は、国民の基本的人権の尊重、簡単に言えば全ての国民の人間としての存在を最大限大切にしなければならないという規定である。
裁判員法は、参議院で2名の反対者があったほかは全会一致で可決された。司法審の意見の丸呑みである。
裁判員として呼び出される人、裁判員や被告人の心情への最小限の配慮もなされず、ひたすら科学的根拠もなしに、官僚裁判への民意の反映は良いことだ、日本の裁判は良くなる、司法はより強固な国民的基盤を得ることができるという、司法審同様まず国民参加ありきでことは始まり進んだ。
例の2011年11月16日大法廷判決までも、裁判員となることは国民の義務とは一言も述べず、参政権同様の「権限」と評して、法の定めたこの国民参加義務に目をつむった。