司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 
 「仮説」の共通認識・正当性検証を

 私ら仙台弁護士会の有志は、制度施行前の2008年2月、仙台弁護士会定期総会に「裁判員制度の施行を延期し国民的議論により抜本的再検討を行うことを求める決議案」を提出し、この制度の抱える根本的問題を提起した。

 その項目を列記すれば、①裁判員制度は国民の主体的参加と言えるものではないこと②被告人の制度選択権を否定していること③裁判員は装飾的存在になりかねないこと④評決にかかる問題⑤裁判員制度と控訴審⑥公判前整理手続の問題性と公判手続の形骸化⑦裁判員制度の数々の違憲性⑧部分判決制度等--である。

 その問題点は、今なお依然として解消されてはいない。私は、そこで指摘された問題について、まず日弁連に対し、今回の見直し時期を契機として慎重な検討と全会員による真剣な討議を求めたい。

 さらに、裁判員法第1条が規定する「国民の中から選任された裁判員が裁判官と共に刑事訴訟手続に関与することが司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上に資する」という制度の存立基盤に関わる仮説が、国民の共通の認識であり、社会科学的に正当なものであるのかどうかの検証がどうしても必要だと考える。もし、その仮説が何ら根拠のないものであれば、この制度を存続させる意味は消滅するからである。

 裁判員経験者は、最高裁判所の調査結果(最高裁ホームページ掲載)によれば、裁判員としての参加について良い経験をしたなどという感想を多く寄せているが、それらは極めて個人的なものであり、それによって司法に対する国民の理解が増進したとか、司法に対し信頼感が増したと評し得るものではない。

 人生一度きりの珍しい体験をすれば、良い経験をした、貴重な体験だったと言うのはむしろ当たり前であって、そのこと自体は何ら前述の仮説の真実性の立証に役立つものではない。

 検証においてデータの集積は必要であるとしても、ただやみくもにデータを集めれば良いというものではない。司法に対する国民の理解とは何か、司法に対する信頼の向上とは何かという定義それ自体を先ず確定させ、素人が裁判体の中に入ればそれらに貢献するとどうして言えるのかという厳密な理論的検討は欠かせないであろう。

 私は、素人がプロの裁判官とともに裁判体の中に入れば、司法に対する国民の理解の増進、信頼の向上に資するなどということは単なるお題目に過ぎず、何ら科学的根拠のない、百年河清を待つに等しいもの、それは原子力発電についての「安全神話」に類することと考える。

 司法に対する国民の信頼は、先ず裁判官について言えば、公正・中立・独立性の保持は当然のこととして、適正手続きを重んじ、優れた判断力による適正な判決と国民に対する十分な説得力を示すことによって得られるものである。最高裁判所のいわゆる三下り半判決などは許されるべきではない。

 さらに、裁判所という機構の抱える問題、特に最大の問題は最高裁判所の人事政策による裁判官統制の仕組みの改革、裁判官の市民的自由の保障、司法行政の民主的運営、判検交流の廃止、警察段階を含めた捜査段階における可視化の徹底、人質司法の解消などを実現することこそがその信頼への近道であり、王道というべきであると考える。

 制度制定者とは距離を置くべき

 先日NHKは「暗黒のかなたの光明」というテーマで文明学者梅棹忠夫を特集していた。その中で梅棹と共に研究して来られた国立歴史民族博物館の小長谷有紀教授の次の言葉が強く印象に残った。

 「文明というのは制度と装置ですけれども、制度と装置が一旦できたらその制度と装置が合わなくなっても中々壊れにくいですよね。そこに綻び、亀裂ができていることが分かっても、がらがらしゃんと壊すのが難しいから、どうしても綻びのまま、だらだら行ってしまう。現代文明のそういう沢山の綻びが分かっているのに、それを政府だとか知事だとか、会社の社長さんとかというところに頼っていたら壊すことは出来ない。それらの人々はその制度を維持するためにやっていらっしゃるわけですから」
 「原子力発電なんかも基本的にビジネスとして動いているので、だからどうしても無茶が通ってしまうわけですよね。皆が気がついているのにそこを抜け出せなくなってしまう。それから抜け出そうと思ったら、一人ひとりが主体者になって、梅棹忠夫が賭けていた『英知』の部分をですね、そこを目がけて知的生命体として幸せに生きることを追求しアマチュアの力で変えないといけない。それはそっちでしか変えられない」
 「好き勝手して生きて来た知的生命体としてそれはそれで全うしていいわけですけれども、それではその人々は次世代に対しては無責任ですよね。その人々には万全に自分の生を知的生命体として生き切っていない人々に累々とした営みを続けて貰うための責任がある。だから現代文明が破局まで行ってもいいやではなく、舵を切りなおすことを我々は我々の責任としてやるべきであると思う」

 日弁連が、前述のように裁判員制度にしがみつき、これからもしがみついて行こうとする姿は、この政府、知事、会社の社長と同列、つまり制度制定者・権力者側にあることを示す。

 しかし、日弁連、弁護士というものは、そもそもそのような立場に立って良いのであろうか。基本的人権の擁護、社会正義を実現することを使命とする弁護士の団体は、この綻びを最初から抱えている、未だに多くの国民の支持の得られていない制度に対し、制度制定者とは明確に距離を置いて、一般市民、上記のアマチュアの立場で、主体的に「英知」を生かす知的生命体として明確に物を言い、舵を切りなおす責任があるのではあるまいか。「制度の原発事故」による被告人、国民の人権侵害を未然に防ぐために。

 それ故に、この裁判員制度見直しの議論は、むしろ日弁連の基本的有り方の見直しの議論に直結するものと考える。=このシリーズ終わり



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