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 〈国民参加ありき、制度ありきの議論〉

 裁判員制度発案の経緯については、それが英米の陪審・参審制にならって、まず裁判に国民を参加させることを当然の前提として、陪審論に熱心な委員とこれに反対する委員との間で意見が激突し、これを取りなした審議会の会長らの提案した実質参審制の制度として発案されそれに落ち着いた形で出されたものであることは審議の経緯から明らかである(西野喜一「裁判員制度の正体」p46以下)。

 つまり、まず裁判への国民参加ありき、裁判員制度ありきで議論が推移し、それではその必要性は何かを後付けで議論する中で、この司法の国民的基盤の確立という用語が用いられるようになったということである(前掲柳瀬第11号別冊p138以下)。そして、その言葉の意味付けに、前記のような3様の曖昧な説明がされたということである。

 この国民的基盤の確立は、その言葉のニュアンスとして、いかにも民主的らしく、また、取りようによっては司法を国民に馴染ませやすいような、また、国民の力で司法を元気づけるような印象を与えることから、その後、司法への国民参加に合理性を与える言葉として独り歩きし始めたのである。前記の最高裁大法廷判決は、裁判員制度の目的であるとまで断言している。


 〈本当に「国民的基盤の確立」が必要なのか〉


 この国民的基盤という言葉は、国家三権のうち、特に裁判員制度が考案されるようになってからにわかに、司法についてだけ言われるようになった。

 民主主義国家の権力は、民意に基づくものでなければならない。国家の進むべき方向を定め、その方向に向かって歩みだすステップを定める、すなわち政策の決定は、国民の意思に基づくことが必要である。その最たるものは憲法を頂点とする法令制定であり、これを執行することである。国民から理解と支持を得たもの、国民の健全な社会常識が反映されるべきもの、主体的・実質的に関与されるべきものは、むしろ、そのような政策決定の場であり、その執行の場面であると言える。

 それだから、政策決定の責任者を選ぶため、国民は、基本的権利として選挙権を有する。選挙で選ばれた国家政策決定の責任者、それから執行を委ねられた者の権力行為は、実質的に国民の意思に沿い国民の理解が得られるものであり、少なくともあるべきであるから、そのような状態の政策に対する概括的な評価として国民的基盤に立つものか否かというような形では国民的基盤という言葉が用いられても良いのかも知れない。しかし、立法や行政の分野で国民的基盤の確立というような議論は大凡なされたことはない。

 立法や行政の分野においても、その政策決定や執行が国民的基盤に立っているか否かを実質的に評価し得る基準は定めようがないからである。国家の将来を定めると言っても、国民という巨大な集団の意見は同一ということは有り得ない。要するに、国民の意見というときには、異なる意見の集約ということであり、そこで基盤が確立されているというときに、何をもってそのように評価し得るかということは、単に、政策決定者が選挙という、これも極めて技術的なテクニックで選ばれているという形式的なことにしか過ぎない。

 つまり、国民的基盤の確立というときに、その表現自体が曖昧であるばかりではなく、そこで使われている「国民」そのものが曖昧なのである(拙稿「裁判官の独立と裁判員制度」司法ウォッチ2016.12~2017.2)。

 今回、司法についてだけことさらに国民的基盤の確立というようなことが言われるのは、憲法上裁判を担当する者の選任の過程が、国民の選挙による意思表明がなされる立法や行政の担当者選任よりも間接的であることによるとしか考えられない。つまり、実質的なことではなく、単なる形式的なものである。

 司法審竹下会長代理は、第32回審議会で、司法の民主的正統性は裁判官の民主的任命制度に求めるべきであると主張している。つまり現行の任命制度をもって民主的正当性を有するものと解しているのである。それを中間報告では国民的基盤と同義と解していたことからすれば、それが形式的なものに過ぎないことを司法審も理解していたと思われる。

 つまり、現行の裁判官選任制度によって行われている裁判は、司法審中間報告の立場からすれば、既に国民的基盤を有するものと解していたということであるから、ことさらに裁判員制度の制定の必要性の表現として国民的基盤の確立などということは取り上げられる素地はなかったということである。



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