司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 

 1995年に発生した東京都庁郵便小包爆発事件で、殺人未遂幇助などの罪に問われ、一審・東京地裁の裁判員裁判で懲役5年を言い渡された元オウム真理教信徒・菊地直子被告人に対する、東京高裁の逆転無罪判決を報じた新聞各紙の記事に、一つ非常に気になるものが目に付いた。裁判員の声などを引用した、裁判員制度の扱いである。

 

 「無罪と聞いてショック。確かに証拠は少ない難しい事件だったが、私たちが約2ヵ月間、一生懸命考えて出した結論。それを覆され、無力感を覚える」(「朝日」11月28日、「有罪判決覆され 裁判員『無力感』」〈注・本紙見出し〉)
 「事件から年月が経過し、被告の内心の認定に頭を悩ませた。決め手となる証拠もなく、真剣に話し合った」「裁判員を務めた意味が何だったのか考えてしまう。直接的証拠があり、市民も判断しやすい事件に裁判員の対象を限ったほうが良いのではないか」(「毎日」同日、「爆発負傷者『誠に残念』 裁判員、疑問の声」)

 

 一審で裁判員を務めた男性の、落胆と裁判員裁判判決「逆転」への疑問の声を取り上げているなかで、次のような法律家の声を取り上げたメディアもある。

 

 「1審の裁判員裁判では、一般の人の感覚で『認識があった』と認定された。しかし、高裁では、その事実認定そのものを否定した。そもそも裁判員裁判は司法の場に一般の人の感覚を反映するために導入されたもの。今回の判決は、尊重しなければいけない一般の人の感覚を無視したことになる。制度の意義そのものが問われる判決だ」(元東京地検特捜部副部長の若狭勝弁護士、「夕刊フジ」同日「オウム菊地元信者『無罪判決』」の波紋 裁判員裁判、一般の人の感覚“無視”」)

 

 各紙こうした声や見解を載せることは、それなりにバランスをとっているという見方もあるかもしれない。ただ、それでもやはりここで気になるのは、これら裁判員裁判の「趣旨」に照らした今回無罪判決への疑問が、どのように社会に伝わるのかということだ。

 

 実は、このことで雑誌メディアを受けたが、その記者から受けた質問も、「裁判員裁判とは市民の感覚を判断に反映するものであり、その感覚で裁いてよいものではなかったのか」というものだった。こうした認識が一般のなかに既にあることをこの記者は知っているのだろう。気になるのはこの点である。これまでも裁判員裁判の判決が覆される度に、出される司法に対する誤解につながる、裁判員制度を中心に据えた「不当性」の刷り込みが、この社会的に注目される事件でなされる恐れである。

 

 これは、逆に言えば、市民の参加を促したいあまり、「市民の感覚」で裁いてよし、と伝えてしまった、あるいはそこに詳密な説明を欠いた制度推進のツケということができる。市民の常識を事実認定に反映させるといっても、それが証拠不十分によって判断しきれない溝を埋めていいことを意味するとは、さすがに推進の専門家も認めないだろう。

 報道されているように、裁判員裁判で菊地元信徒や証人記憶があいまいで、「何が本当なのか判断が難し」く、「決め手となる証拠がな」い本件で、裁判員は証拠がない以上有罪にできない、ではなく、「感覚」で穴埋めをしていい、というベクトルで判断したのではなかったか。「不当性」の刷り込みは、まさにそのことが認められていいことのように伝わる危うさを持っている。

 

 高裁判決の一審判決に対する「証拠の不十分な推認を重ねた」という批判は、まさにこの現実を直視したと同時に、非常に危い裁判員裁判の現実を浮き彫りにしているといえる。

 

 さらに、このことは職業裁判官とともに市民が裁くというこの制度の限界、あるいは無意味性を露呈しているともいうべきだ。裁判における証拠の重み、「疑わしきは被告人の利益に」という原則といった、裁判における踏み外せない、最も素人に伝えるべき前提を、現実的に伝え切れていないとみることもできるからである。素人による感覚重視の偏重への不安が、制度に対して、指摘される度に、その是正役として強調にされてきた、「ともに裁くプロ」への期待に相当な疑問符がふらねばならない。

 

 そして、その意味では、本件のような多数被害者が出て、マスコミにも大きく報じられたような重大事件にあって、職業裁判官の口からも度々次回の言葉として聞かれてきた「結果の重大性に引きずられない」、証拠に基づく判断をこの制度に期待できるのか、という不安も当然もたげてくる。

 

 そもそも三審制であることを考えれば、裁判員制度の「市民参加」の意義を傷つけるなという過剰な反応を前提にしない限り、「逆転」そのものは、当然にあり得る話であり、そうでなければ三審制を機能させる意味がなくなる。高裁裁判官が「法律的には無罪」としたうえで説諭したことが報じられているが、裁判員裁判の現実が、その区分にたどりつけない制度では危うい。そして、もし、危さが払拭できない制度であるならば、そのことを制度ありきの論調のなかで、国民に隠すことは問題といわなければならない。裁判員制度のために、刑事裁判があるわけではない。

 
「捜査幹部『無罪、何かの間違い』、一審裁判員『無力感』」(朝日デジタル) 
「爆発負傷者『誠に残念』 裁判員、疑問の声」(毎日) 
「オウム菊地元信者『無罪判決』の波紋 裁判員裁判、一般の人の感覚“無視”」 



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