いうまでもないことであるが、国政・市政における情報公開は、国民・市民の意思決定に直結するものである。国民・市民の判断に必要な材料の適正な確保のために、不可欠なもので、その意味では国民主権を支える重要な柱であり、これに消極的であるということは、すなわち国民主権に背を向けるものと断ぜざるを得ない。
従って、国民・市民の側からすれば、ここは相当に厳しい監視の目を光らせなければならない。これもいうまでもないことであるが、行政も政治家も、権力的保身、利権などが絡む、彼らに不都合な事実を隠ぺいするに当たり、正面から国民主権に背いて、情報公開をしないなどという、建て前に立つわけがないからである。
もし、そうした隠された意図が彼らにあったとしても、彼らは最後まで情報公開を徹底する、している、と強弁するはずだ。だから、無関心や物分かりのいい国民・市民は、この局面で彼らに好都合な、その意図を完遂するのには有り難い存在になるだろう。
だから、私たちは何度でも疑うべきなのである。彼らにとって好都合・不都合かかわりなく、フェアに情報が提供されているかどうかを。彼らが巧みに、不都合なことを隠ぺいしながら、情報公開を口にしていないかを。
「一体、この国は薬害エイズから何を学んだのか」
政府が推し進める新型コロナウイルスのワクチン接種をめぐり、その安全性に関するフェアな情報公開がなされていない現実を、3月10日の参院予算委員会で、川田龍平・参院議員が追及している。
オミクロン株の感染率で、ワクチン未接種者と各回数接種者との間で、接種回数による有意差は認められないという調査結果がある。副反応について「十分な情報がなく判定できない」と扱われているものが多過ぎ。死亡例がたったの一例もワクチンを原因として認めていないのは、統計上あり得ない数字。ワクチン接種との因果関係を認めなかったり、情報公開をしないのが、接種が進まない原因でもある。5歳から11歳へのワクチン接種は確実な情報公開の下、慎重を重ねなければならない。今回のワクチンは人体への投与が初めての、遺伝子ワクチンで、中期的影響についてのエビデンスもなく、効果のエビデンスもまだ出ていない治験中のワクチンを、まして本来大人よりも重症化リスクの低い、将来を担う子どもたちに接種をせかすべきではない、一国のリーダーとして、情報公開をしっかりせずに接種をせかし、将来の子どもたちの命に責任が持てるか――。
昨年来のコロナ禍の出口として、国を挙げて傾斜したといっていいワクチン接種のなかで、既に浮き彫りになっていたといえる、アンフェアな情報提供の現実について、子どもへのワクチン接種推進という局面で、川田議員は改めて追及している格好だ。ワクチンへのフェアな情報提供が担保されないまま、そのリスクへの不安が、拡大しつつあるということになる。
これに岸田首相は、どうこたえたか。
「5歳から11歳までの子どもへのワクチン接種について、何より重要なことは、本人や保護者にワクチンの有効性、安全性をご理解頂いたうえで、接種を受けて頂くことにある」
「引き続きワクチン接種の効果に関する治験の収集には努めつつ、必要な情報を発信しながら、ワクチンの有効性、なにより安全性について丁寧に分かりやすく説明していく」
こうしたいかにも作為的に論点をずらす、政府の答弁は散々見せつけられてきたが、ここでも説明するまでもなく、岸田首相の答弁は、川田議員の指摘に全く向き合っていない。有効性、安全性について、国民の理解を進めるとだけの回答は、川田議員のいう懸念にも、ワクチンのリスクにも向き合うつもりはない、指摘は現段階では、杞憂のようなものだ、と言っているようにすら聞える。
ワクチンの有効性、安全性だけを、国民に説明することだけが政府の役割という姿勢は、フェアな情報を提示し、あとは国民の選択にゆだねるという姿勢が、政府側にみじんもないことを明らかにしているともいえる。川田議員の懸念を頭から杞憂で誤解であると、国民に理解させることが、フェアな情報公開よりも重要と言っているようである。
しかし、さらに不安をかき立てるものは、昨年来の国民の反応である。このコロナ禍日本で、私たち国民は、このアンフェアな情報公開の現実への危機感を共有できているだろうか。薬害の教訓を熟知している専門家までが、川田議員のいう指摘に向き合っていないようにみえるのはなぜだろうか。あえていえば、薬害エイズ被害者でもある川田議員に、ここまで指摘されなければならない、私たちの中の危機感の鈍磨は、どういうことなのだろうかと思ってしまう(「ワクチン接種への傾斜と薬害の教訓」「ワクチン接種慎重論への扱いにみる危うさ」)。
コロナ禍にあって、ワクチン接種を推し進める政府と、その傾斜を受け入れている私たち国民の姿が、実は、この国の宿痾を浮き彫りにしているように思えてくる。