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 一体、私たちは何を見せられているのだろうか――。「暴力に屈せず、民主主義を断固として守り抜く決意を示す」。安倍晋三元首相の「国葬」実施について、岸田文雄首相は国会でこう言い切った。しかし、その同じ首相が実施反対の世論が多数の中、国会での徹底的な審議を回避し、法的根拠もないまま、国費が投入される「国葬」を閣議決定だけで決めて、実施してしまった。

 これほど分かりやすい「矛盾」があるだろうか、と思ってしまう。改めて説明するのもばかばかしくなってくるが、岸田首相が「断固として守り抜く決意」を示した「民主主義」とは何か、と問いたくなる。選挙応援演説中の元首相が暴力によって倒されたことに対し、守るべき「民主主義」への感性をお持ちでも、民意や合意形成・プロセスへの、それにはそうした感性をお持ちでない。というか、それでいい、ここに「矛盾」などない、ということらしい。

 前者は目に入るが、後者は目に入らないらしい、ということ自体、いささか善意解釈の気すらする。なぜならば、前者に登場する「民主主義」すら、既にとってつけたお飾りに見えてしまっているからだ。まず、「国葬」実施という着地点があり、内閣法制局の「入れ知恵」で、内閣府設置法によるで「国の儀式」ならば閣議決定だけで実施できるという「アイデア」に飛びついただけ、というのが現実らしい(9月29日付け朝日新聞)。

 前者の「民主主義」擁護の熱い思いが本物ならば、後者へのあまりの「民主主義」軽視の姿勢はあり得ない。この「矛盾」は、むしろ前者の言い分の軽薄さを浮き彫りにしてしまう、と言っていい。もちろん、岸田首相が掲げた「聞く力」「丁寧な説明」も同様に、もはや中身が伴わないものであることがはっきりしてしまった。

 思えば、私たちが現政権のみならず、それに至る安倍・菅政権を通して、ずっと見せられているのは、要するに「決められる政治」のなれの果てである。やれ「ねじれ国会」だ「決められない政治」だ、はたまた「長期政権の実現」「強いリーダーシップ」「政治主導」。その先に現れたのは、政権の都合で、閣議決定だけで勝手に「決められる」という民主主義軽視だったというだけである。

 私たち社会は、「決められる政治」に導く前記切り口と論法に、もっと油断することなく、その悪用に警戒感を持つべきだったのだ。彼らが「民主主義を守り抜く」前提を投げ打って、彼らの都合で「決める」ことへのお膳立てになる危険性に。

 それを言うのであれば、小選挙区制導入も同様かもしれない。「金権政治打破」「政権交代の可能性」に社会は目を奪われた。結果は、党公認頼み選挙となり、与党政治家は党代表や幹事長の顔色を見るようになり、議員同士が意見をぶつけ合う形はなくなり、それが1強体制を構築。「二大政党制」が言われながら、民主党政権が躓くと、それもぐっと遠ざかってしまった。「政治とカネ」の問題で一定の効果があったという評価もあるようだが、参院選挙区での買収事件など、結局、カネが動く政治は存在している。

 つまり、これも目を離して見れば、それこそより多数の声、議論が反映されにくい、反民主主義的な政治の温床になっているように見える。

 民主主義のプロセスには、本来的に手間と労力がかかるものだということを私たちは教わってきた。多様な民意に向き合い、少数意見も尊重するように運営されなければ、それは実は民主主義の皮を被った独裁にもなり得ると。少数意見を多数意見が抑圧する形になることを、いかに回避するかが、民主主義は問われるのだと。

 これを考えれば、そもそも「決められる」というところから入る政治は、民主主義にとっては危うく、「決められない」というテーマがあるのならば、そここそが、時間をかけて議論する意味があり、むしろ民主主義が試されている局面だったのである。

 まさにわが国の民主主義の劣化を象徴しているといっていい、今回の「国葬」実施で、私たちはまず、そのことに気付かなければならない。



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