新法曹養成制度のなかにあって、いまや「予備試験」という存在は、見方によっては非常にグロテスクなものになっている、といっていい。志望者の予備試験人気、そしてそのルートを経由した者に対する社会的評価を含めて、本道の法科大学院ルートを凌駕するブランド化が進んでいるというイメージそのものが、法科大学院制度の失敗を象徴することになっているからだ。
制度設計時に、「改革」推進者のなかに、この事態、つまり予備試験が本道の足を引っ張ることを予想した人間がいなかったわけではない。司法制度改革審議会の論議でも、その導入について賛否の対立はあった。マスコミも含め、法科大学院本道主義からの定番である「抜け道」批判は、既に設計時の議論から懸念論として反対派からは聞かれていた。現実は、彼らからすれば、予想された悪夢といっていいかもしれない。
しかし、この彼らのいう「抜け道」を、法科大学院を中核とする新制度は、結果的に作らざるを得なかった。新プロセスの強制化(修了の司法試験受験要件化)が、旧司法試験体制に比べて、犠牲にすることが、初めから明らかだった公平性・平等性・多様性。その決定的な欠陥を補うために、あるいはそれを取り繕うために、新制度は法科大学院で未修コースをメインに掲げ、また、この経済的困難者救済のための制度も設けざるを得なかった。そして、いずれも、その無理と建て前が、失敗につながったようにみえるのである。
「抜け道」という表現には、経済的事情で本道を選べない人のためという、本来の制度趣旨に反するという点の批判だけが込められているが、現実は、こういう形でしか埋められなかった、新制度の前記欠陥のツケであるといえる。そもそも少しでも経済的負担をなくすルートを選択すること自体、彼らのいう「経済的事情」とはっきりと区別することはできないし、その自由を認めないことそのものが「強制」化の発想からしか導けない。
志望者が自由に選択できる制度にすると選択されない、逆にいうとはじめから自由にして選択されるだけの「価値」を示せる自信がない制度が選んだ「強制化」の無理と、旧試からの公平性・平等性・多様性の避けることができない後退を、「予備試験」の現実が象徴している。そこが、まさにグロテスクなのである。
今月、ネットニュース媒体が掲載した「予備試験合格者座談会」での、ある参加者の次のような発言が、一部ネット界隈の弁護士ら間で話題になった。
「ロースクールは、学部で予備試験に受からなかった人の逃げ道にしかなっていないように感じます。そういう人がロースクールに入ったとしても、結局次の年に予備試験を受けて、受かったらロースクールを辞めるだけですからね」(弁護士ドットコムニュース、11月15日配信)
2017年の予備試験合格者の実績でみても、大学生が214人で法科大学院生(在籍で受験)104人の2倍に及び、大学生の受験者・合格者は年々増加している。前記発言と併せてみれば、弁護士の経済的価値の下落とあいまって、経済的時間的負担のかかる法科大学院を優秀な人材が選択肢しないだけでなく、法曹志望であっても、優秀な人間は学部で予備試験にチャレンジし、抜けていく実態が浮かび上がってくる。
予備試験を「抜け道」といい、さらにそのルートの制限の必要性までいう法科大学院本道主義に対し、法科大学院は予備試験不合格者の「逃げ道」といわれる現実。もちろん、本道の「価値」を認めて、選択している人がいないとはいえない。しかし、今、本道の側が一番に自覚すべきことは、「抜け道」の現実の不埒をいい、さらなる「強制」に頼る必要性ではなく、「強制」化をもってしても、「価値」の勝負は避けられず、そして、それに敗北している制度の現実の方であるはずだ。