「頼りがいのある司法」というフレーズは、今回の司法改革の必要性をアピールする文脈の中で、官民でさんざん使われてきた。「改革」の「バイブル」のように扱われることになった、2001年の司法制度改革審議会意見書は、司法制度改革の三つの柱の第一に取りあれげ、「『国民の期待に応える司法制度』とするため、司法制度をより利用しやすく、分かりやすく、頼りがいのあるものとする」とした。その後、右へ倣うかのごとく、政府刊行物や弁護士会の主張のなかに「頼りがいのある司法」が登場してきた。
これまでの司法が国民の期待にこたえていない、ことを前提に、それを司法の側が自戒した結果として導き出された「目標」ととれる、このフレーズは、「改革」の必要性を説くには、座りがよく、そもそも良し悪しでの疑いが入る余地がない。利用したくても利用できない人は確かに存在し、もちろん多くの人がこれまでの司法に「期待通り」という賛辞を送ってきたわけでもない。「頼られる」に越したことはない以上、多くの司法関係者の「改革」へのマインドを束ねるにも適していたといえるかもしれない。
しかし、この言葉は、今にしてみれば、肝心の中心がぼやけている。そして、そこにこだわらなかったことが、弁護士の量産計画や、法テラスなど、結果としてこの言葉に牽引されたような、政策の失敗に繋がっているようにみえるのである。
政府の司法制度改革推進本部事務局がまとめたパンフのタイトルにも登場するが、この司法の「頼りがい」とは、「身近」であるとか、「早い」ということを伴って登場する。国民に縁遠いことや、裁判を利用しても時間がかかり過ぎる、といった利用者が司法に抱くマイナス要因を想定し、それらを除去した向こうに「頼れる司法」を設定している格好だ。
そして、当然、前者は法曹の数の少なさや偏在、利用者市民が駆け込める窓口の設置、後者はそのまま裁判の迅速化という課題を導き出す。
しかし、結果はどうであろうか。「頼りがいのある司法」は実現しただろうか。実現したという、社会的評価が、現在、この「改革」の結果に与えられているだろうか。「改革」推進派は、こういう切り口になると、二言目には「道半ば」的な弁明に終始するのであえて問えば、その実現に向かっている、前進しているという肯定的な社会的評価はどうであろうか。
つまり、有り体に言えば、「頼りがいのある司法」のイメージは、前記の政策を導き出すのに有効だったが、その政策の側から辿って行っても、そこにはたどりつけなかった、ということである。それがなぜかと考えるためには、やはりそのイメージをもう一度疑うしかない。
例えば、数が足りない、物理的に身近にいない、という設定は、そもそも利用者の視点で頼れる司法の課題だったのだろうか。数がいくらいても、いくら身近にいても頼れるか、という問いかけは、とりもなおさず、数を必ずしも増やさなくても、物理的に身近でなくてもという仮説を生み出す。裁判の迅速化は課題だったとしても、早いだけで、頼りがいや利用しやすさを導き出すのも短絡的にすぎる。
そもそも「頼りがい」とは、どういう利用者を想定すべきなのか。経済的にゆとりのない利用者の頼りがいなのか、それともアクセスさえできれば、司法におカネを投入する容易がある利用者にとってのそれなのか。
結論から言えば、「改革」は「頼りがい」というフレーズのもとで、意図的にこれらをあいまいにしたまま、駒は進められといわなければならない。同じ時期に、この言葉同様にも、幻惑的に「改革」牽引役を担った「二割司法」というフレーズもそうであるが、この両者とも、司法の側からすれば、有償と無償のニーズはごちゃまぜのまま、大量のニーズ=司法への期待(司法側が何とかしなければならない期待)が、まず設定されている。
その結果、数を増やすだけでは、あるいは身近に配置するだけでは、迅速化するたげでは、どうすることもできないニーズを、司法は抱え込むことになった。しかも、その部分、たとえば無償性の高い部分も本当に国家として司法がなんとかする、という立場だったかといえば、それもまた違った。現実は、競争原理を被せて、増やした弁護士の競争や努力に基本的に丸投げしたのだ。これらがこの国で達成できなかったのが、少ない数を維持し、保身に走っていた弁護士たちの責任であるとする批判的論調を伴って。
したがって、当然のこどく、弁護士の経済的基盤はもとより、弁護士を動員する制度にあっても、その適正処遇が十分考慮されているわけもない。要は、純粋に「なんとかする」から逆算した検討がなされたわけではなく、「なんとかしろ」という「改革」だったのである。
丸投げされた弁護士は、「改革」によって増員による競争を突き付けられ、サービス業化、ビジネス化への自覚が迫られながら、なぜかその同じ「改革」によって、これまでより非採算的な公益的仕事を迫られるという無理に直面することになった。これまでには、存在し得た経済的な一定の安定性のもとに、非採算部門を担うことができた層の生存は厳しくなった。弁護士は追い詰めても、まだまた経済的ゆとりがあるはずとか、必ずや経済的ニーズ(しかも増員弁護士を支えるだけの)も生まれる、あるいは潜在的に存在するという楽観的な見通しは完全に外れたのである。
この「改革」によって、一まとめにされた利用者からすれば、むしろ「頼れなくなった」面すら存在するし、逆に弁護士の側からすれば、「頼れる」という期待には、遅ればせながら、経済的な意味において、相当の注釈をつけなければならなくなった。一体、「改革」を挟んで、どちらが利用者に有り難いのか、という話に行き着いてしまうのでせある。
いまだに、この「改革」を「国民が求めたもの」という法曹界関係者がいる。しかし、決してそうではない。「改革」推進者が、一方的に「頼られる」存在を描き、その道筋であるという無理な政策を繰り出したのである。その結果が明らかになった今でも、その現実が十分に伝えられないまま、いまだにこの表看板だけは、虚しく掲げられ続けているのである。