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 強固な自治を与えられた、専門職能集団としての弁護士会が、本来的に問われているのは、弁護士法1条の弁護士の使命である、基本的人権の擁護と社会正義の実現に照らして、どこまで忠実であり得るか、ということのはずである。したがって、時にあらゆる権力、あるいは国民の多数派と、当然に対峙することもあり得る。そうであればこそ、少数者・弱者の人権擁護の「砦」となり得るといわなければならない。

 弁護士会の活動に対して、しばしばいわれる「政治的」という批判的論調も、まずはこの基本を踏まえてとらえるべきである。いうまでもなく、弁護士会は「政治団体」ではないが、その一方で、前記使命に忠実である以上、仮にその活動が「政治性」を帯びたようにみえても(個別政党の主張と同じ方向になることなどを含め)、あくまで目的に忠実であるならば、それは堂々と推し進めなければ、存在の意味そのものが問われておかしくない。

 これは何も弁護士に限ったことではない、といえる。外部の批判的論調に屈して、言うべきことをいわない、筋を通せない専門家では、存在価値が問われるし、究極、困るのは社会である。医師が、社会にとって敬遠されるから、多数の国民にとって耳の痛い話だから、政治的にみえるから、権力者が歓迎していない方向だから、という理由で、それに臆して発信すべき医学的知見を発信しないということは、果たして専門家のあり方として評価できるだろうか。

  弁護士会も「政治的」という批判を浴びる度に、沈黙する団体では、それこそ何のために、強固な弁護士自治が与えられているのかも分からなくなる(「弁護士会意思表明がはらむ『危機』」「金沢弁護士会、特定秘密法反対活動『自粛』という前例」「弁護士会が『政治的』であるということ」)。

 しかし、一方で、その強固な自治を、強制加入制度で支えているという弁護士会の性格を考えると、当然に、宿命的に「会内民主主義」の重要性も問われることになる。多数決原理によっても、それだけではなく、少数者の意見にどこまで配慮するのか。弁護士会もまた、「民主主義のコスト」といわれるような手間と時間をかけた工夫とその努力が求められるはずのである。

 「会内民主主義」が担保されず、前記使命を推進する基盤である自治が、構成員の精神的なものを含めた、離反・分裂を引き起こせば、それはそれで社会の損失につながるかもしれないのである。

 9月24日に東京弁護士会が、賛否対立の議論の末、賛成多数で可決した死刑廃止に向け執行停止を求める決議が会内で波紋を広げている。採決の結果は、賛成1199票、反対が781票、棄権177票で、可決されたが、問題は全体の36%(反対と棄権を含めると44%)という反対票(不同意票)の多さである。

 この結果をみると、東京弁護士会は、まさに弁護士自治を背景に、死刑問題と会内民主主義の狭間に立たされているようにみえる。反対派から聞こえてくる、国民世論の多数は死刑に賛成しているということは、前記した使命からすれば、弁護士会の対外表明を躊躇する理由にはならず、また、そうしてはならない。

 また、個々の弁護士の思想・信条ということであれば、それは弁護士会の方針決定では個々の会員が拘束されないということで、一応の結論が出ている(「弁護士会意思表明がはらむ『危機』」)。したがって、よく反対派弁護士から聞こえてくる、「依頼者に『先生も賛成派ですか』といわれる」といった不利益論は、あくまで社会の誤解に基づくもので、周知(例えば、細かな票数の公表や前記拘束されないという現実の)によって解決する余地があることになる。

 しかし、それでもなお、この反対票は無視できるのか、あるいは「会内民主主義」としてどう扱うべきか、という問いかけは残る。いうまでもなく、死刑制度存置の見解は、会が方針を決定すれば、「頭を切り替えてその方向で一致して」という性格のものではなく、そうなりようもないものである。これからも延々と尾を引く。弁護士会はおそらく「批判勢力」を抱え込む形になるといってもいい。

 そして、さらにいえば、この批判論を支えるのは、直接的に「会内民主主義」にかかわる会員の発言機会や討議時間といった、方針決定プロセス、さらにいえば、反対派から出ている犯罪被害者や遺族への配慮といった問題だけではないようにも見える。つまり、司法改革の失敗によって、弁護士の経済的環境が激変するなか、強制加入団体の弁護士会が個々の会員に対して、何をしてくれるのか、あるいはその優先順位の問題として納得できないという、反発が会員に広がっていることの影響である。

 現にそういう本音がネット上でも発信されている(「『新弁護士会設立構想』ツイッターが意味するもの」)。そして、そういうものを弁護士会は軽視できないはずと思えるのは、そもそも現実的には、「改革」前の弁護士会の方針決定と自治も、会務無関心層を含めて、そうした「反対しない」サイレント・マジョリティによって、支えられてきたようにとれるからだ。その土壌そのものが、「改革」の失敗によって、変化しつつあるのである(「『塊』としての日弁連・弁護士会という発想の限界」「欠落した業界団体的姿勢という問題」)

 今、弁護士会主導層に求められているのは、過去との違い、明らかに「改革」によってフェーズが変わった会員の意識を直視し、かつての方法が通用しなくなってきているという認識することではないだろうか。そうでなければ、会員離反、弁護士自治の内部崩壊、そして弁護士会の弱体化は、さらに現実のものとなり、「改革」の失敗の弊害は、さらに上塗りされかねないと思えてならない。



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