ウクライナ戦争勃発後、ニュース番組に軍事に関する専門家らが登場し、さまざまな角度から戦局を解説するのを目にするようになった。彼らはもちろん、その番組の(あるいは視聴者の)期待にこたえ、役割を果たしているというべきだろう。
しかし、彼らの語る言葉を改めて聞き直すと、強烈な違和感が襲ってくる。「このラインまで軍を進め」「ここを守りきれば」「ここを叩いて」「制圧し」――。軍事のセオリーの中で語られる、その場面場面で、現実的には血みどろの殺し合いが行われ、罪のない、本来、戦争などに加担したくないかもしれない人間が次々に死んでいる。
「いや、だってそれが戦争ですから」。前記違和感を口にすれば、彼らはこう返してくるかもしれない。私たちが知らないかもしれない戦争の常識、その前提のうえで、彼らは、その戦局を解説するためにここに来ている、ということになるかもしれない。しかし、それでも、そこで起こっているはずの現実からすれば、この解説を聞く私たちの感覚は、徐々にその現実感を霞ませて、麻痺し、それを平然と聞いていることに気付かされる。あえて刺激的で惨酷な戦場の映像は、お茶の間に流さないという、その意味では別の悪影響が起こり得る「配慮」も手伝って。
同じようなことといえば、あまりに突拍子もないと言われそうだが、あえて引き合いに出したくなることがある。わが国では、与党・自民党が「政治とカネ」の問題を問われているなかで、衆院補選で惨敗し、いよいよ政権と同党が追い詰められてきている。こうなれば、毎度のことながら、政局含みのことが注目され、そこでも日本の政界の常識のなかで、それに詳しいジャーナリストらが分析・解説したりしている。
当然のことながら、話題の中心は岸田文雄首相と、それを巡る動きとなる。その座にしがみつき、再選を目指す岸田首相。同首相では選挙に勝てないとみて、本音では首をすげ変えたい議員ら。延命のために解散権を行使したくても、補選惨敗で厳しくなった首相。逆に一か八かで打って出られることも恐れる議員ら――。
そんな彼らの姿、思惑が、ジャーナリストらによって伝えられるが、ふと我に返ったように、この状況を見返せば、どこにも「国のため」「国民のため」は見当たらない。何に彼らは顔色を変えているのかは、改めて問うまでもないだろう。首相にも、議員らにも、その懸念の先に、国民はない。裏金問題に「火の玉になって」望むはずの首相の本気度の化けの皮は、既に剥がれてしまっても、首相は平気の平左。それこそ衆院解散を首相の「専権事項」とみて、まるで一存でいついかなる時でも解散にできように読み変えて、延命目的で解散時期を探る姿とそれに恐れる人間たちの姿に、私たちの感覚は麻痺してきていないか。
何のために彼らは選ばれ、そこにいるのか、ということが問いかけられず、また彼らもそれを省みることなく、本当は私たちにはよそよそしい、国民不在の政局を私たちは見せつけられ、ジャーナリストらはそのなりゆきと予想を私たちに伝えている。「この人たちは、一体何をやっているんだ」という問いかけが、まるでないことが当たり前のように。
それでも軍事専門家は「戦争を肯定しているわけではない」と言い、政治ジャーナリストも「この政治を肯定しているわけではない」と強弁するだろう。誰かが伝えなければならないし、その役割も重要であるというのも分かっている。しかし、私たちはやはりその都度、そして今こそ、自分自身に問いかけるべきではないだろうか。戦局、政局で展開されている、この理不尽な現実を前に、正気を失わないために。