司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 

 裁判員制度を問題視する人のなかには、この制度が実は国家による国民の「耐性実験」ではないか、という見方がある。抽出した国民を出頭させ、重大刑事事件の裁判について罰則をもって強制的に裁かせるこの制度は、憲法にも規定がない義務化にどれほど現代の国民が耐えられるか、受け入れられるかが試されているというものである。

 

 その目的は何か、ということになれば、この強制化の先にほとんどの人は同じ制度を連想するはずである。いうまでもなく、それは徴兵制だ。制度反対派は裁判員の候補通知を「現代の赤紙」と呼んでいるが、そのたとえはまさしくこの連想を的確になぞっているといえる。

 

 あえていえば、この二つの制度は、今、二つの側面からつなげて見ることができるように思う。一つは「民主主義」と「平和」の強調である。裁判員制度は、司法への国民の直接参加による意見の反映という描き方による、民主国家にとって望ましい制度であるというイメージ、国民が刑事裁判に参加することによって、社会治安に協力するという、いわば「平和」、この社会の安全を国家の一員として守るための制度というイメージが被せられた。

 

 一方、現代日本で、仮に何らかの徴兵制が導入されるとしても、それが反民主主義的に戦争遂行を宣言して、導入されると想像する人間はほとんどいない。民主国家にふさわしい決定手続きを経るとされるだろうし、当然、「戦争」は諸外国の脅威のもとに語られ、制度の必要性についても、この国の「平和」を守るため、という形で国民の賛同が求められるはずだ。「戦争法案」の本質を持つ安保法制に対して、今、国家がどのように国民に言い繕っているかをみても、そのことははっきりしている。

 

 この二つの制度の導入は、ある意味、前提と手法において、共通のものをはらむことが容易に分かる。仮に「耐性実験」ということでみれば、この枠組みのなかで、国家への国民全体を巻き込む奉仕としての強制が、どこまで国民に通用するのか、どういう消極的世論と対峙し、逆に実現にはどういう新たな手法が求められるのかまで、読みとろうとする意図を被せることも不可能ではない。

 

 もう一つは権力との一体化(共犯関係)の隠ぺいという側面だ。実は、裁判員制度は国民が「裁く」という司法権の行使に国民が組み込まれることを意味する。権力を行使するのは、参加する市民なのだからいいではないか、ということが、制度を「民主主義」的と強弁する制度推進派からいわれるかもしれない。だが、裁判員制度におけるこの権力行使は、国民による批判的チェックができないという、むしろ民主主義的な重大欠陥がある。権力行使あたって裁判員は裁判官のように実名を明らかにされず、公権力の行使でありながら批判の対象から外され、また、裁判員にその責任に対する自覚をどこまで求められるのかもあいいだ。有り体にいえば、職業裁判官のみであれば、批判の対象になり得た刑事裁判が、このことによって批判を免れることにつながるのが、この制度のもう一つの正体ともいえる。

 

 この視点を制度推進派は、国民にほとんどで提示していないといっていい。むしろ、提示すれば制度そのものが成り立たなくなる、不都合なテーマであるからこそ、極力隠されているといっていい。参加意欲は低い、国民に背を向けられている制度にあって、それこそ、実名と責任の所在を明らかにするとなれば、報復の恐れを含めさらなる敬遠傾向につながることは火を見るより明らかだからだ。

 

 一方、徴兵制をめぐって、今、にわかに注目され、懸念され始めているのは、強制徴兵ではない、いわゆる「経済的徴兵制」というものだ。奨学金の返済や除隊後の進学支給制度がある米国の制度にあって、社会保障費の削減などと相まって、経済困窮者の入隊が同国で増えているという現実が報告されている。それが日本の自衛隊でも同様の受け皿になる制度が作られ、現実のものになるのではないか、というのである。

 

 そもそも強制ではない徴兵は、参加意欲という面でむしろ望ましいという軍関係者の思惑もいわれるが、実は国民の関係でいえば、どこまでいっても「自己責任」に転嫁できる志願制は、犠牲に対する国家の責任追求を和らげる、国民の無関心(他人事扱い)に、より支えられ得る形とみることもできる。国民が戦争遂行組織の人員に参加していく形を容認するのであれば、国民自体が戦争遂行のりっぱな共犯者であるが、この形はおそらくこういう自覚も生みにくい。ならばなおさら、その実相は伝えられない可能性も考えられる。

 

 だとすると、裁判員制度は強制化への耐性という面だけではなく、他人の犠牲の前に、「民主主義」と「平和」に目を奪われた大衆が、実は制度の本質にどれだけ無関心でいられるか、その共犯意識、権力への警戒心もまた、測られているように思えてくる。そう考えれば、実際の出頭率が低くなり、無作為抽出で多くの国民から選ばれた、公平な民意が反映しているような形が壊れて、実質一部の人間の意思だけが司法に反映している形(実質的な志願制)にたとえなったとしても、そのこと自体はあるいは、国家が考えている裁判員制度の本当の目的からすれば、問題ないということになるのかもしれない。

 

 戦時体制を支えるに当たり、国民を統治主体として裁きの共犯者にする制度の危険性は、つとに裁判員制度反対派が主張してきたことである。国民の無自覚がその推進に好都合であることもはっきりしている。

 

 私たちは、この二つの制度の前に、権力と自ら位置取りを常に疑ってかかる必要があるように思えてならない。



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