司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>



 気が付けば、この国の政治家も官僚も、結局、自分の地位を最優先に考える人間たちで満たされているのではないか。少々めまいを覚えるような話であるが、嫌な言い方をすれば、そういう目で停滞や下降傾向が顕著なこの国を見ると、不思議なくらい筋が通るといわなければならない。


 自分の地位をいかに保全し、あるいは利を得られるか。国政にあっても、本来、公益、要は国民の利益から逆算して行動しなければならない公僕が、当然のように、まず、第一にそうした地位を守ることから逆算して行動を選択する。肝心な時に、民意は反映せず、国民は常に裏切られ、先に進む、当然の、そして極めて分かりやすいカラクリがそこにある。

 「聞く力」を掲げながら、国民の多くは、その声が届いていると思っていない、先ごろ、次期総裁選への不出馬を表明した岸田文雄首相にしても、今、「暴君」ぶりが問題視されている斎藤元彦・兵庫県知事にしても、実はその点で国民は同じものを見せられているのではないか。

 ご本人は「不本意」と言うかもしれないが、恋々と地位に固執している姿ばかりが目についてしまう。何かを成し遂げたり、国民の期待にこたえるという実績で評価される以前に、このことが先に立ってしまうのは、前記カラクリからすれば、必然である。目的がそもそも違うのであるから。少なくとも、結果的に国民・市民を裏切ったという自覚から、その職を辞する決断をした過去の政治家と比較すれば、そもそも目的が違うからで説明がついてしまう。分かりやすい話である。

 政治家や官僚が、その使命感や存在意義への自覚から判断・評価される、あるいは、できる社会では、なくなってしまっていることだろうか。もちろん、国民・市民が期待していることは変わらないはずだ。ただ、それがあくまで彼らの使命を果たす「イメージ」によるものであり、「イメージ」のまま終わってしまう。そして、そのこと自体が、政治家や官僚の中では、どこか許されるということが当たり前になってしまっている、ということだろう。だから、ある意味、堂々と、恥も外聞もなく、「別の目的」に忠実に行動できる。

 首長の暴走をテーマに取り上げた9月13日付け朝日新聞朝刊オピニオン面「耕論」に登場したノンフィクションライターの西岡研介氏は、ここにメディアの責任があることを指摘する。

 「政治は本来、地味な利害調整の積み重ねやのに、維新の会が輩出してきたような、トップダウン型の『強い』リーダーを持ち上げてきたメディアの責任も大きい」

 社会に停滞感、閉塞感が広がる中で、世論が極端にトップダウン型の「強い」リーダー待望に傾斜してしまうのは、歴史が教えるところであるが、その時こそ、慎重さが求められるのも歴史的な教訓である。その危うさの中で、「イメージ」によって国民の人気を集めようとする政治家が現れ、それに対し、厳しい目で評価することができないメディアの現実がある、ということか。

 しかし、それだけではない。やはり根っこには国民がいる。そうした政治家に脅威とならないのも、そうしたメディアを結果的に許してきたのも、国民である。「操られていた」とばかり、被害者意識だけで国民がとらえるのも、間違っているし、もちろん、それでは何も変わらない。

 前記朝日の記事の中で、西岡氏は今回の兵庫県知事の問題を挙げて、「何か変えてくれそう」というイメージだけで首長を選んだらロクなことにならないと、今回は多くの人が学んだのではないか、として、亡くなられた職員のご冥福を祈りつつ、これを教訓とするしかない、と指摘している。

 同じ紙面の一面に、今回の自民党総裁選候補者全員が、今の政治不信の元凶ともいえる裏金事件の実態解明への消極姿勢が目立ち、各候補とも追及に二の足を踏んでいることが報じられている。そしてそこには、それが国会議員票を取り込む必要からのものということも、はっきりと書かれている。

 この国を蝕んでいる、本来の存在目的とは「別の目的」で、堂々と行動とする人間たちに、その「イメージ」に引きずられず、どういった目線を向けるのか――。私たち国民も、今、試されている。



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