受験者が4000人を切り、合格者数は政府の最低「死守」ラインとされた1500人も割ることとなった、2020年司法試験の結果を受けて、法曹離れへの危機感をもとに書かれた、ある現職自民党参院議員のブログに、こんな表現が登場したことが、法曹関係者のネット界隈で話題となった。
「(法曹離れに歯止めをかけるためには) 検事は公益のために起訴を行い、裁判官は一部原発判決のような偏向した判決を出さず、弁護士は反政府的な活動をせず、コロナ禍の中で差別や偏見から関係者を守る等、国民の期待を担って、国家・社会での活躍を期待したい」
あくまで現在の司法に対する個人的な認識と割り切る見方もあるかもしれないし、ご本人もそう弁明されるかもしれない。ただ、こうした司法観を現職の国会議員が持ち、それを堂々と披歴している現実を、私たちは果たしてそういう形で看過すべきなのであろうか。公益のために起訴しない検察、偏向判決を出す裁判所、反政府的な活動をする弁護士、そして、国民の期待を担わず、国家・社会のために活動しない法曹たち――。
司法に対するこうした不満・批判がある、というのならば、最低限具体的な事実を摘示して、どこがどう、この批判に当たる言及すべきともいえるが、そうではないこの一文は、とりもなおさず、政治権力による司法に対するレッテル貼りというしかなくなる。とりわけ、批判的な文脈での「反政府的な活動」という表現は、あたかも時の政府に従属的でない弁護士の活動を、頭から「あるまじき」と言っているに等しく、圧力的な意味さえ匂わせている。
ネット上の法曹関係者の多くも、この一文については、驚きをもって受けとめた。これを政治力がない日本の司法に対する「政治部門からの攻撃」とする声もあった。
そして、それに加えて見逃せないのは、この一文が、そもそも法曹養成制度改革に関する文脈の中で出てきたことである。彼は「改革」の失敗が法曹離れの原因であるという認識は前提にして論を展開しているが、「改革」擁護者のご多分にもれずというべきか、志望者の時間的経済的負担と司法試験合格率の低さだけに言及し、「法曹5年一貫コース」や「在学中受験容認」といった資格取得への「時短化」に主眼を置いた、先の見直しに話をつなげている。
しかし、より根本的な問題である、「改革」が新法曹養成制度と一体化、目的化したはずの法曹量産政策の失敗、さらにそれによる弁護士の資格価値の低下が志望者減に決定的に影響していること、それが彼も認めている制度的負担をより志望者に大きいものとした(経済的なリターンが期待できないことも含め)ことには言及していない。
問題の一文は、そうした彼の認識と、先の見直しに言及したあとに、括り的に登場するのである。それは一見すると、あたかも前記彼のいう司法の「現実」が、前記見直しの足をひっぱりかねない、ひっぱってくれるな、と言わんとしているようにとれる。そして、そのこともさることながら、もっと問題なのは、法曹養成改革を現職国会議員が語るときに、もはやこういうような偏った司法観に基づく「べき論」を、ある意味、堂々、被せてこられること、そして、そういう国会議員が存在していることの危うさであるといわなければならない。
やはり、私たちは、油断してはならない。