私たち日本国民は、今、高市首相とその政権による国会軽視の現実を目にしている。しかも、それは相当に露骨だ。通常国会が始まった直後、予算審議に入る前、自らへの追及を避け、今ならば勝てると踏んだ選挙に向けて衆院解散。316議席を得る圧勝のあとは、今度はその議席にものをいわせ、審議も不要という姿勢に。首相の答弁回避、野党合意なしの職権連発、37年ぶりの分科会省略のすえ、史上最高額の122兆円の予算案を、史上最短の59時間で衆院を通過させている。
露骨さが際立つのは、高市首相の政治姿勢の「本音」が、2つの点で分かりやすく露出しているからである。一つは、国会審議の「障害物」視。自らの側の議席が少なければ、国会は「危険な場所」のこどく、解散で回避、議席が多ければ、今度は国会を「儀式」のごとく、その数の力で短縮。どちらの局面でも、国会は乗り越えるべき「障害物」であり、その結果、そこに審議の意味、価値はない。まして熟慮などあるわけがない。
もう一つは、「ポーズ」さえないことが示す認識。少数意見を聞くということへの形式的配慮さえ示さなくてもいい、という軽視のレベルである。数の力を使った安倍政権でさえ、審議時間の形式的確保、与野党協議の場は設置したとされている。アリバイ作りさえ、省いていいという姿勢である。
先の衆院選前、高市首相の姿勢をめぐっては、既に心底を見切ったかのように、彼女が求めているのは、「白紙委任」ではないか、ということが取り沙汰された(「高市『解散』が投げかけた『白紙委任』」)。選挙で勝てば許されるという、選挙至上主義と国会軽視の現実は、残念ながら前記疑念が的中し、むしろ彼女の中で筋が通っていたことさえうかがわせる。
しかし、最も憂うべきはここから先である。この極めて露骨な高市首相の国会軽視を目の当たりにした国民の反応である。共同通信の3月調査で、高市内閣の支持率は64.1%、予算案審議の時短には賛成47.1%、反対46.5%とほぼ拮抗している。内閣支持率は下降フェーズに入っているとはいえ、国会軽視をちゃんと眼前でみながらも、依然首相は支持するという民意が読み取れてしまう。
価値観の問題や「問題視しない国民性」に括られてしまいそうな、ここには、実はわが国の有権者国民と政治家をつないでいる、構造的な現実があるといえる。それは有権者が政治家をパッケージで評価し、選んでいる結果であるということだ。例えば「国会運営は乱暴だが、経済政策は支持したい」「与党は問題を解決できるかは疑わしいが、野党よりはましな気がする」「危ない面も感じるが、強いリーダーに期待してみたい」。こうした部分的支持が積み重なることによって生まれる高支持率である。この結果、国会軽視の一点で不支持に転じるほどは、民主主義手続きに関心もこだわりもない、という人は、それでも支持するのである。
投票所に国民の足を運ばさせるために、選挙前メディアがこぞって提唱してきた、政策や意見などが完全に一致する候補者でなくとも、自分の考えに最も近い人を選べばよい、という「よりまし選挙」。ある意味、その副作用であるようにもみえる(「『よりまし』選挙の落とし穴」)。
しかし、この副作用は、実は民主主義をゆっくりと侵食しかねない。ある政策に期待して、多数与党をパッケージで支持する。与党は、パッケージ支持を「白紙委任」のように読み替えて国会軽視・民主主義的配慮を無視。それが問題化しきれないまま、与党側には成功した前例になる。次の政権も同様の発想ながら、さらに前例に従い、許されるとしてその方向に踏み込む。そして、徐々に民主主義的な形が形骸化し、まるでそれが「正常」のように国民も受け取りはじめ、定着化していく――。
つまり、本当の怖さは、政治家が増長し、横暴になっていくだけではなく、それに国民の感覚が順応し、慣らされていくことなのである。私たちは、私たちのパッケージの選択で、何を一緒に丸ごと飲まされているのか。それは本当に無視していい危険なのか。そのことにどうすれば、もっと自覚的になれるのかに、今、真剣に向き合うべきところに来ている。