司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 資金管理団体「陸山会」の土地取引をめぐり、政治資金規正法違反(虚偽記入)罪で検察審査会の議決によって強制起訴された小沢一郎・「国民の生活が第一」代表に、東京高裁は一審に続き、無罪判決が言い渡した。「民意」とされた検察審査会の2度にわたる「起訴相当」議決の結論ではなく、東京地検特捜部の不起訴判断が、司法においては妥当だったという結論のようにみえる。

 だが、多くのマスコミ論調は、そうしたとらえ方ではない。つまりは、この裁判によって「政治とカネ」の問題がさらに浮き彫りになったこと、さらには、虚偽の捜査報告書を作り、検察審査会を「誘導」した検察の問題の方に、矛先を向けるものが多くみられる。そこには、依然として、制度として「民意」を反映させる検察審査会の強制起訴自体を傷つけまいとする配慮がみられる。「民意」に従って立証を続けた指定弁護士も責められない、という立場である。

 しかし、一方で多くの法律家も疑問視していた強制起訴と、無罪判決後の指定弁護士による控訴の先に待っていた、いわば司法としては当然の結論でもある。それこそ捜査のプロが容疑不十分で不起訴にした事件を、非公開の検察審査会で「民意」に基づいて覆し、市民が被告人の立場に置かれ続けた現実は、この結果から何ら省みる必要がないこととして片付けられるのだろうか、という疑問がどうしても残る。

 前記マスコミ論調のなかには、「政治とカネ」の問題をめぐる不信感が積み残されていることを挙げ、いまだ小沢氏の政治家としての説明責任が果たされていない、といったニュアンスが込められている。今回の判決に絡めても、大衆の目をそちらに向けたい、という意図さえみえる。

 ただ、司法に持ち込まれたこの問題が、まず、はっきり国民に伝えておかなければならない点が、ここにあるように思う。つまり、司法の役割である。裁判は、政治家・小沢一郎に説明責任を果たさせる場ではない、さらに、「民意」に基づいて、国民が納得する機会をつくるものでもない、ということである(飛耳長目「強制起訴の背景にある『納得』」)。法と証拠に基づいて、個人が訴追され、裁かれるのが刑事裁判であり、その目的は、いうまでもなく国民の納得ではない。この裁判をめぐる一連のとらえ方は、それがきちっと峻別されて国民に伝わっているのだろうか。

 それは検察審査会の強制起訴制度そのもののとらえ方の危うさでもある。「有罪を疑わせる証拠がある時、犯罪というパブリックな問題を裁判所というパブリックな場で討論してほしい」という制度、とくくった裁判員制度推進派の法律家がいたが、実際は「証拠」よりも「民意」として「疑わしきは法廷へ」という発想が、強制起訴制度の中には流れている。それが前記司法に課せられている使命と、どう結び付くかという問題が積み残されている。

 さらに、今回問題となったような、検察の「誘導」ということが現実化したのであれば、それを防ぎきれないこの制度は、「民意」の名のもとに、彼らに利用される危険もはらんでいる。

 「国民的基盤」あるいは「国民の理解」という言葉が、度々、司法の課題としていわれながらも、一方、司法の民主主義原理とは相いれないものであるともされてきた。とりわけ、個人、少数者の人権を擁護する目的からすれば、司法が多数を形成する「民意」にゆだねられることの危険は常に考えなければならない。

 今回、あくまで司法は司法として結論を出した。ある弁護士は、「かろうじて司法の独立は守られた」と語った。司法が「民意」によって、ぐらつく社会は、そのまま正義がぐらつく社会だ。小沢氏の説明責任を強調し、検察審査会や指定弁護士を傷つけまいとする多くのマスコミ論調は、今回の判決を通して、そのことの重要性を国民に喚起するものにはなっていない。



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