いわゆる「平成の司法改革」が目指した「利用しやすく、分かりやすく、頼りがいのある司法」、そしてそのためのアクセス向上や弁護士増員といった量的拡大とそれを支えるための法科大学院を中核とした新法曹養成制度。しかし、今、改めて気付かされるのは、SNSなどで盛んに言われている「司法改革」の必要性は、いまやここではなく、もっぱら判断の妥当性などを含む公正さを担保する法曹三者の「質」の問題。別の言い方をすれば、現在の法曹の「質」をまず「なんとかしろ」という話である。
これは、「改革」必要論の重点の移行ともとれるが、要は国民・市民の不満の矛先が、前者の「利用しやすさ」から、「公平さ」「信頼性」という、より根源的問題に向けられてきているともとれる現象といえる。しかも、これは必ずしも前者の「改革」への成功・達成を前提に、次なる「改革」を求めているものともとれない。
もっと言ってしまえば、前者への前進的な評価もさほど聞こえてこない。むしろ、国民が真に求めている、「平成の司法改革」があるいは意図的に回避したテーマへの反応ともとれるのである。
裁判官に対しては、事実認定や量刑の妥当性への疑問、冤罪発生への裁判官の個人責任が問われないことへの不満、司法の独立が無謬性や無責任の誤った体質を支えていないか、という批判。一方、検察官に対しては、犯罪被害者などからの、「不起訴」判断の壁の厚さと不当な捜査などへの不満、証拠開示の不十分さ、公正な裁判を受ける権利の侵害という認識の広がりである。
これらは別に目新しいものではなく、「改革」以前から存在してきたものとみることはもちろんできる。そして、これに対して、当然、在朝法曹側から用意される言い分も延々と変わっていない。「司法の独立」「起訴独占主義」は政治的圧力から司法を守り、客観的正義を実現するために不可欠。判断の公正さや質の向上は、制度の問題というよりも、個々の法曹の自己研鑽で対応すべきことだし、裁判員制度といった限定的な市民参加でも担保される、といった話である。
これは、司法が生み出している現実に対して、もっと自省的な姿勢を求める国民・市民目線に対し、(少なくとも市民からすれば)制度の意義に逃げ込み、その維持を優先しているととれるという、全く変わらない構図なのである。
弁護士に対しては、前記「改革」の量産体制がもたらした、粗製濫造ともとれる「質」の低下に対する、市民の肌感覚ともいえる不満がみてとれる。弁護士が増えても、市場原理が期待させたような低廉化も良質化も起こらないことへの期待外れ。逆に増員政策がもたらした弁護士の経済状況の悪化のしわ寄せは、利用者市民のカネに手をつけるような弁護士の登場として、市民に回ってきているではないか、という批判でもある。
これに対する弁護士界内の反応は割れ、市民目線通り、「改革」の失敗を率直に認める見方もある一方、「改革」を擁護する側は、増員による多様な弁護士の登場がもたらしたメリットや、競争・淘汰の効用論にしがみついたままの、「改革」の「道半ば」論、つまりはこれからさらに効果は出で来る、それゆえに「改革をとめるな」とばかり、さらなる増員継続をいう言説まで存在している。もちろん、国民の不満へのアンサーとしては、これもまたほとんどその効果は期待できない。
前者の裁判官、検察官への国民・市民の不満が、「平成の司法改革」のそもそもの欠落点に比重を置いたものであるとすれば、弁護士に対しては「改革」の政策的失敗、さらにいえば逆効果、「やぶ蛇」な現実を言うものともとれる。結論から言えば、現状、この不満に効果的に向き合う姿勢は、いずれの法曹にも存在しているように見えない。言ってしまえば、国民・市民の無理解に対して、理解してもらうしかない、と言っているような姿勢にとれるものなのである。
そもそも「平成の司法改革」自体、国民・市民が求め、その突き上げによって動いた「改革」ではない。その現実を実は「改革」を推進した側も認めている。要は、国民・市民に突き動かされたわけではなく、国家と経済界と法曹界が推進したものではあるが、それは国民・市民のために、いわばその期待・希望を忖度したものである、というのが少なくとも表向きの認識である(「『市民』が求めたわけではないという現実」)。
だとすれば、今、SNSなどで見られる国民・市民の目線が示すものは、そもそも制度や「改革」擁護論に逃げこむ限り、解消されることもその認識の溝が埋められることもほとんど期待できない。「平成の司法改革」に立ち返り、その「改革」が誰の利益を優先し、現実的にはどういう国民・市民目線の要求を、根本的な経済的裏付けなどで、よりハードルが高いものとして、意図的に回避したのか――。そこを直視しない限り、一歩も前進せず、その不満との認識差は延々と埋まらないことを、現在の状況は教えているのではないだろうか。